JINSEI STORIES

滞仏日記「いつものカフェで、いつものぼく」   Posted on 2019/10/19 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、パリに戻るとそこに日常が待っていた。慌ただしかった日本での日々がもう遠い過去のようだ。そこに息子がいて、息子が脱ぎ散らかした洗濯ものが籠から溢れていて、キッチンのシンクには食器が積み上げられている。とりあえず夕飯の買い物に行かなきゃならないので、買い物袋をぶら下げてすぐに出かけた。家の前の道の左右にはスーパーや八百屋や画材屋など馴染みの店がずらり。顔見知りばかりなので、ぼくを見つけた書店のクリスティーヌや、バーのニコラや、レストランのセシールなんかが、手を振ったり、笑顔を向けてくる。とりあえず、角のカフェに顔を出し、いつものビールを頼んだ。そこはいつもの席で、いつもの交差点の風景が目の前に広がっている。

「おお、辻」
と声がしたので、振り返ると、ワイン屋のブリュノが近づいてきて、握手。
「日本、どうだった? でっかい会場でライブだったよね」
「大きな台風とぶつかって、延期になった」
一瞬顔が曇ったが、そうか、まあ人生というのはいつもそんなもんだ、と彼がおなじみの笑顔を浮かべながら決めつけた。この人はぼくのライブに来てくれたことがある。ナイキのマークのような笑い顔の男だ。人の批判もあからさまにするけど、憎めない。同い年なのだ。そういえば、彼のお父さんが亡くなった日、目を赤く腫らして、それが人生なんだ、と同じようなことを言ってたっけ。
「次の土曜日に店の前で一日中、牡蠣とワインの試飲会やるから来いよ」
「いいね」
するとそこに、ブリュノの店の隣でアンティーク屋をやっているオリビエが顔を出した。オリビエとブリュノは仲が悪いけど、オリビエはいつもブリュノの店のトイレを使っている。オリビエが来た途端に、ブリュノの顔が曇った。
「日本から戻ったのか? どうだった日本? ラグビー凄かったね」
オリビエはセクシャリティを感じない、年齢不詳のおじいさんだ。ブリュノが前に、あいつは違う次元で生きてる不思議ちゃんだから相手にするな、と言っていた。確かにオリビエは気難しい人間で、自分が気に入らないタイプの人間は客であろうと店にいれないし、店に入っても声をかけない。自分が話しに熱中している時は、途中で客が来てもほったらかし、だいたいの客が呆れて帰ってしまう。よく商売が出来るな、と思うが、決して悪い人間でもない。なぜ、ぼくが彼と仲良くなったのかというと彼の店のウインドーに飾られていたクラゲの入ったガラスの置物が好きだったからだ。毎日、買い物の途中で眺めていたらある日、クラゲだよ、と声をかけられた。反射する光りが綺麗だね、とぼくが告げると、気に入ってくれて、中に入れてもらえた。だからといって買うわけじゃなく、ぼくはただ、アンティークの椅子に座って、そのクラゲを眺めていた。そこにブリュノが通りかかって、何してんだ、こんな店で、とからかった。あいつはちょっとおかしいから、関わるな、とそこら中に聞こえるほど大きな声で告げた。でも、君だって変わってるし、とぼくが返すと、ブリュノはナイキの口で大笑いし、あとで飲みに来いよ、と言った。

ある日、ぼくがブリュノの店の奥、好きな客らを集めてしょっちゅう試飲会をやっているテーブル席があって、そこでワインをご馳走になっていると、オリビエが入って来て、そんなものを飲んだら、腹を壊すぞ、と耳打ちして、トイレに入っていった。ブリュノがレジの傍から、なんだって? と大きな声で文句を言ったが、オリビエはすでにトイレの中。くそ、あいつ、いつだってわがもの顔で入って来て、ワインを買うわけでもなく、おしっこして帰っていくんだ、と文句を言った。ナイキのマークがへの字になっていた。でも、追い返すこともしない。オリビエも嫌われていることを知っているが、お構いなしにトイレを使って濡れた手をズボンで拭きながら出て行く。ぼくはこういう二人の関係が嫌いじゃない。

話はカフェに戻るけど、ブリュノが帰ろうとしていると斜向かいでレストランをやっているシェフのユセフがブリュノに気が付き立ち話をはじめた。ベルベル人かアルジェの出身だと思うが、この人の笑顔は太陽を感じるくらいに嘘がない。でも、いつも酒臭い。ぼくに気が付いたので、その笑顔がさらに笑顔になって、手を伸ばしてきた。ぼくは仕方なく立ち上がり、握手し返した。ブリュノが、日本は台風で大変だったんだぞ、と知ったような口ぶりで言った。みんなが台風の話をしはじめる。カフェのオーナーがそこに加わり、週に二回は顔を出す中華レストランのご夫妻まで通りかかって、ちょっとした集会となった。あの日のことを思い出したけど、ぼくは説明をしなかった。あの夜、ぼくはライブが延期になったので、暗い部屋で一人泣いた。それに台風の被害があまりに酷かったので、そのことを彼らに話すのが躊躇われた。オリビエが小さな声で謝った。直訳だと、ごめんなさい、という意味だけど、フランス人の独特な言い回しで、日本語にするなら、同情します、に近いのかな。オリビエの肩を掴んだ。ぼくの顔がちょっと暗くなったので、ブリュノもユセフもオリビエも店主もご夫妻も、静かに離れていった。ぼくは座り直し、残ったビールに口を付けた。いつもの街角が目の前にあった。もう18年もこの辺りで暮らしている。どこかで一度はすれ違ったことのある連中ばかりだった。また、走りださなきゃ、と思った。  

滞仏日記「いつものカフェで、いつものぼく」