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滞仏日記「家族っていいな、と息子は言った」  Posted on 2019/09/16 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、4時半に起き、サンドイッチを拵え、出発の準備をする息子に手渡した。5時過ぎに家を出て二人でモンパルナス駅へと向かう。休日だし、早朝だから、走ってる車も少ない。駅前に車を停めた。
「必ず、TGVに乗ったらSMSすること。ナントに着いても、こっちに戻る時も絶対SMSで状況を知らせること。君は未成年だから。いいね」
「うん」
息子が駅に消えるまで見送ってから家に戻り、再びベッドに潜り込んだ。息子から「今、出発」とメッセージが届き、安心して眠る。

息子は恋人のエルザの家に遊びに行った。パリから400キロ以上離れたナント市の郊外(東京―名古屋くらいの距離感)に家族4人で暮らしている。格安のチケットを手に入れて、息子は恋人に会いに行った。恋人と名乗り合ってはいるけれどまだ子供、仲のいいガールフレンド程度の関係である。会いたいというので、日帰りであれば、と許可した。夜の22時にモンパルナス駅に戻ってくる。

友人のリサから電話があった。
「わたしは心配しているよ。どんな家庭かわからないし、ひとなりがよくても、フランスにもいろんな人間がいる。何かあってからでは遅いから、用心にこしたことはない」
でも、ぼくは二人の再会を認めたし、彼は恋人の家へと向かった。
「リサ、ありがとう。でも、ぼくはあいつを信じてる」
「わかるけど、フランスといっても広い。そんなにいきなり最初からいい人たちと出会えるとは限らない。差別ではないけど、この国は様々な人々、移民も、外国人も、大勢暮らしている。ネットで知り合っただけじゃ、背景も分からないし、もしものことを考えるとわたしは心配で仕方がない」
「それはぼくも一緒だけど、でも、ぼくはエルザと面会した。ぼくは作家だし、あの子が育った環境が見えた気がしたんだよ」
再び駅に迎えに行くまで、ずいぶんと時間があったので、午後いっぱい、近くの公園に行き、ライブの練習をした。しかし、待てど暮らせど、息子からメッセージは届かない。

17時間後、ぼくはTGVが駅に着く時間にあわせて再び待機していた。時間通りに息子から電話が入った。
「着いたよ。どこ?」
「朝、お前を下ろしたところだよ」
まもなくリュックを背負った息子がやって来て、助手席に座った。
「どうだった?」
「うん、あのね、」
この子は滅多に感情を顔に出さない子なので、その顔が綻んでいる様子から、楽しい時間を過ごせたのだな、とすぐに分かった。親だから、嫌というほどにわかる。頭をごしごししてやってから、肩を抱きしめた。
「エルザのお父さんがね、とっても優しかった。ぼくにね、遠くからはるばる来てくれて本当に嬉しいと言ってくれたんだ。それにエルザのお母さんが帰りの車内で食べるようにってお弁当を作ってくれた」
「弁当?」
「フランスの弁当だよ。サンドとフライドポテト。美味しかったよ」
ぼくはエンジンをかけて、車を出した。朝五時半のモンパルナスと同じような暗い光景が広がっている。静かで、まるで時間が止まったままのようだ。
「お父さんはどんな人?」
「ずっと笑顔の人だったよ。お母さんも優しかった。幸せな家庭でエルザは育った」
あまり聞いちゃいけないと思うのだけど、一応知っておく必要もある。リサの忠告も耳に残っていた。どんな人たちか知っておきたかった。人見知りの息子が幸せそうな顔をした。この子のこんな顔を見るのは珍しい。もう、これ以上聞くのをやめようと思った。リサには感謝だが、でも、きっと大丈夫だ、とぼくは思った。
「よかったな。幸せか?」
「パパ。なんか、家族っていいなって思った」
「そうか」
「家があって、猫がいて、エルザに似たお姉さんがいて、ご両親がいて、スープの匂いがするんだ。窓の外の森に夕陽が沈んで、お父さんの弾くギターの音が聞こえて、あたたかくて、笑い声が弾けていて・・・」
「またいつか会いに行けばいいよ」
「そうだね、お小遣いが続かないから、またちょっと先のことになるけどね」
「明日の宿題やれよ」
「うん、やるよ」
ぼくらを載せた車は夜のパリを突っ切った。また、明日からこの子は高校生に戻る。この子は少しずつ大人になっていく。その小さな人生の断片をぼくは記憶に刻んでいく。これをこそ幸せと言ってもいいのじゃないか、と思った。

滞仏日記「家族っていいな、と息子は言った」