JINSEI STORIES
滞仏日記「一人で生きることを肯定する生き方」 Posted on 2019/08/23 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、眩しいので、ステファンの館の離れで目を覚ました。すると窓の向こうにイギリス海峡の青い水平線が広がっていた。ぼくはその美しさに感動をし、飛び起きるとジャージに着替えて、飛び出した。ステファンの家の門を出ると曲がりくねった石の小道が海岸まで続いている。ノルマンディらしい、岩場の目立つ海岸線だけれど、その分観光客がいないから、ぼくだけの世界だ。NRCのスタートボタンを押して、ワークアウトを開始した。今日の目標は5キロだ。いや、4キロ、かな。笑。誰もいない海岸線をひたすら走り込んだ。
一人でするスポーツが好きだ。
とくにランニングが好き。でも、パリ自宅周辺の通行量の多い地区を走るのとは違って、水平線を見ながらのランはとっても心地よい。
空気が違う。肺の奥深くまで吸い込み、手を広げて少年のような気分で走った。
古い皮膚がメキメキと音を立てて古いうろこのような感じで剥がれ落ちていくイメージが広がる。魂の洗濯というけれど、まさにそれだった。ぼくはぼくを取り戻したい。
つねに誰かの傍にいないとダメだという人の気持ちがわからない。
ぼくは、(息子さえいなければ、笑)本当はこういう一人旅がしたい。きっと無人島でもやっていけるタイプだと思う。ある人が、「社会の中で疎外感を感じて馴染めない」とぼくに相談をしてきたことがあった。
ぼくは「一人でいればいいじゃないか」と助言した。
でも、そうしたら社会の中で浮いてしまう、と言ったので、ぼくは笑った。誰の人生だよ、と言ってやった。
そんなことをいちいち気にして、周りのために自分をこき使うつもりか。周囲に気を使っているからストレスを抱えてしまうのだ。適度な距離感を保つ生き方が大事だと思う。
ぼくの場合、「孤独」でいいと最初から割り切っているので、社会のために自分を犠牲にすることもない。だから難しい問題や局面も時に起こるけれど、孤独でいいと思っているので、恐れがないから、乗り越えられる。
そういう生き方を60年続けてきたので、ストレスはほぼない。その分、仕事は必死で挑まないと生活が成り立たなくなるけれど、組織の中で適合できないということは逆に人間らしいので、よし、としている。
孤独でいいじゃん、とその人に言った。
ステファンも編集者をやめ、奥さんと死別した後はずっと一人で生きている。海岸線の端へと走っていたら、愛犬を連れているステファンが波打ち際にいた。七十代の元編集者は何を考えているのであろう。彼の目線の先に輝くイギリス海峡の金波銀波が広がっていた。
でも、声はかけず、そっとしておいた。
午後、腹が減ったので、この村で唯一のクレープ屋さんに入ったら、そこのシェフと仲良くなってしまった。
「君、日本の作家なの?」
「ああ、ヒトナリだよ」
「俺は、ドニ。よろしく」
「ステファンの家に転がり込んで小説書いてるんだ。素敵なところだね」
「あのね、ここはアーティスト村なんだよ。ステファンのところにもしょっちゅう作家がやってくるけど、そもそも、この一帯は画家、映画監督、作家とかがパリから逃げてきて住んでる」
「だから、俺がいるんだな!」
まさに、とドニは笑った。
孤独好きだけど、ぼくに人間の国境はない。ぼくに人間の敵はいない。笑顔を信じる。
陽が沈むのを眺めながら、ぼくは還暦ライブへ向けて、部屋で歌の練習をした。
オーチャードホールでのライブが迫って来た。
ここで構成を考え、アレンジをし、歌い込むのはとってもいい合宿になる。海が客席で、そこにファンの方たちの笑顔が広がっている。
あの打ち寄せては返す波、金と銀の波が笑顔に見える。ぼくは夕陽に向かってお辞儀をして、やあ、辻です、と呟き、歌い出した。
どんなに大きな声を張り上げても誰にも怒られることがない。誰憚ることなく、歌える。なんて人間的なのだろう。孤独は素晴らしいじゃないか。