JINSEI STORIES
滞仏日記「仲間たちとのやりとり。辻式フランス語講座」 Posted on 2019/04/03 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、ここのところ調子が出ないので、息子を学校に送り出した後、気分転換を兼ねて、ジルのカフェまで散歩した。行きつけのカフェで働いていたが、数年前に独立して右岸のシャンゼリゼに近い裏通りに自分の店を構えた。小ぶりだけど居心地のいいカフェだ。午前中は客が少ないので歓迎される。彼は日本通で、ちょっとだけど日本語も話す。空手は黒帯という腕前。ちなみに恋人もかつて日本人だった。かつて・・・。
「ツジ、コモンバチュ」
最近どうか、という挨拶である。ジルはグラスを磨きながら、笑顔で言った。だから僕は、
「バー、ヤデオデバ」
と返す。
ええと、良かったり悪かったり、いろいろかな、という感じ。
「エトワ?」
君は? と返す。するとジルは、
「サヴァ、トロンキール」
と口元を緩めて返す。
ま、相変わらずだよ、という意味だけど、仲のいい連中とはだいたいこんな感じのやり取りが続く。とってもフランス的話なとっかかりというのか、そこから会話がはじまる。あと、フランス人は必ず最初に「ボンジュール」を誰に対しても言う。これを言わないで本題に入ると、あえて「ボンジュール」と厳しく言い返されたりする。礼儀がしっかりしている国民性だと思う。このボンジュールだけは知らない人にでも目が合えば言ったりする(気分もあるけど・・・)。ボンジュールと返事が戻って来ると世界は一つだな、と思えたりする。「ボンジュール(こんにちは)」と「オルヴォア(さよなら)」は大事な言葉だ。日本だと全ての場所で、たとえばデパートなんかで、こんにちは、とはいきなり言わないけど、フランスはほぼすべての場所で、デパートであろうとスーパーのレジでも、ボンジュール、を口にする。日本でデパートの各店舗から出る時にいちいち「さよなら」とは言わない。言うと気持ち悪い感じになるけど、フランスだと言うのが当たり前だったりする。そう考えると、フランス人は意外と律儀な人たちである。「サリュ」はもっと親しい間柄で使うけど、僕の年齢になるとあまり言ってくれる人がいない。僕は大歓迎なんだけどな。
ジルは「サリュ、ツジ」という。「よ~、辻っち」みたいな感じかな。すると僕は「ウイ、サリュ。コモンバチュ?」と返す。僕はジルの店に行くと最近の出来事について話す。仕事がうまくいかない、とか、ユーロが高い、だとか、人生に苦戦している、とか、なかなかいい出会いがなくてさ、だとか、どちらかというとネガティブな話題から入り、みんな肩を竦めて、
「バー、セラヴィ」
それが人生だよな、という結論で納得しあう。或いは、
「セコムサ」
そんなもんさ、と言って苦笑いを浮かべる。あまりフランス人(男性)は自慢話をしない。割りと控えめな人種かもしれない。おっと、ただし、女性に対しては正反対だけど・・。フランスの男は口説くのが本当に上手だから、セクハラという感じにあまりならない、気もする。何か、そこはとっても見事に立ち回る。逆に言えば、日本のご婦人方は、ここフランスで男性に口説かれてもあまり本気にしない方がいい。ボンジュールと同じレベルの意味だったりもする。それにしてもジルの女性を口説く技術は相当に高い。いや、その話はやめておこう。というのか、僕らはフランスの経済とか政治とか結構硬い話ししかしない。女性のことは話題にものぼらない。ジルは僕の先生みたいな存在なのである。もちろん、フランス語の・・・。
「サリュ、ジル」
別れ際、僕はそう言い残す。
「サリュ、ツジ! アビアント!(またね)」