JINSEI STORIES
滞仏日記「僕がブラックジーンズを穿き続ける理由」 Posted on 2019/03/25 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、息子のジーパンが破れたので「穿くものがない」と言われ、二人でジーパンを買いにボーグルネルまで出かけた。この間リスボンで買ったジーパンはどうした、と訊いたら、もう破れて穿けない、という。ものすごい勢いで成長するのですぐに穿けなくなる。そろそろちゃんとしたジーンズを買わなきゃと思い、リーバイスに連れて行った。若い店員が息子にいろいろと勧めた。二人が話し合って決めたのが512と呼ばれるスリムのブラックジーンズであった。僕はそのジーパンを掴んで、しみじみと眺めた。定員はケビンという名前だった。腕に入れ墨があるけど、いい青年だった。自分とちょっと重なった。あれから、40年の歳月が流れている。懐かしい光景が記憶の中でフラッシュした。「パパは昔、これを売ってたんだよ」と息子に言ったら、「へ~、いつ頃?」と戻って来た。「大学生の頃だ。新宿のサンパークというジーパン屋のブラックジーンズコーナーの担当だった」「働いてたの?」「バイトだよ。同じ世代の仲間たちがいて、バイト仲間というのだけど、仕事が終わるとみんなでビートルズなんかを歌いながら一緒に帰った」
18歳の頃の僕はまだ何をしたいのかはっきりとしていなかった。ミュージシャンになりたかったし、映画を撮りたかったし、小説も書きたかったけど、そのどれもが中途半端で、楽器はうまく弾けないし、映画は撮ったことがなかったし、書き上げた小説は一つもなかった。でも、何かをスタートさせたいと毎日、わくわくしていた。ブラックジーンズのコーナーは奥まった場所にあって、あまり穿く人がいないので暇だった。上の階のレジ横にお直しの場所があって、そこにハルキという裾上げの担当がいた。そいつがベースマンだった。陽気でまじめでいいやつだった。ファッションデザイナーを目指し、普段は専門学校に通っていた。僕は彼から裾上げの方法を学んだ。「パパは裾上げの名人だったんだよ」と息子に自慢をした。「どうやって覚えたの?」
「辻君、裾上げは、お客さんに靴を脱いでもらって、鏡の前に立ってもらい、いいかい、床にすれすれのところで折って、ピンでとめる。足の甲の方が折り重なっていても気にしない。大事なのは踵の方だ。片方でいいよ。あとはこちらで合わせるから」「なんで床すれすれなの? 長すぎるじゃん」「洗濯をすると縮むんだよ。ジーンズによるけど、だいたい2、3センチは縮むから。本当は一度洗ってからやる方がいいんだけど、そうもいかないから、縮むことを計算して長めに折る。いつも同じブーツを履くお客さんの場合はもっと長くしなきゃだめだ」
人気のある店員には常連客なども付いていたようだけど、イケてない僕のところには滅多に誰もやって来なかった。しかも、ブラックジーンズの売り場だったからなおさら。当時、ジーンズと言えばブルーだった。ある日、そこにスネアドラムを抱えたロックっぽい青年がやって来た。「何系のロック?」と訊くと「メタル」と言った。ちょうどドラムを探していたので、暇だし、自分の野望について語った。とにかく説得力だけは人一倍あったし、きっと今よりも向こう見ずで生意気だったから、ドラム青年は目を輝かせて僕の話に聞き入った。誰もいないブラックジーンズ売り場で、僕はロックンロールについて力説をした。「マジソンスクエアガーデンでライブやれるようなバンドを作りたいんだよ」夢だけは世界一だった。そのドラマーはツトムという名前だった。僕はハルキとツトムと三人でQUARKというバンドを結成した。それがECHOESの前進にあたる三人組のロックバンドだった。
ケビンが「2、3日預けてくれるならうちで裾上げをやりますよ」と言ったので、僕は振り返って、「新宿のサンパークなら15分だ」と意味のわからない自慢をした。「15分?」と彼が訊き返してきた。息子が僕の腕を引っ張って、「いや、なんでもありません」と笑ってごまかした。「そういう時代があったんだよ、40年ほど前の新宿に」僕は自分に言い聞かせるように呟いた。新宿のルイードで僕らはファーストライブをやった。散々だったけど、それが僕の夢の第一歩となった。