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滞仏日記「振り返らないでくれてよかった」 Posted on 2019/03/19 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、内田裕也さんが逝った。滅多にこういうニュースに反応をしない僕が暫く携帯を睨みつけて呆然とした。一度、バンドを解散してソロになった直後、25年以上前のことだが、日比谷の野外音楽堂でのライブが終わった後、バンドマンたちと肩抱き合いながら楽屋に戻ると、誰もいない野音の楽屋のテーブルの上にどんと馬鹿でかいシャンパン(ドンペリニオンのマグナム)が鎮座していて、それがまるで刺客のようにそこを支配し聳えていた。僕らはみんな楽屋の入り口で立ち止まって息を飲んだ。熨斗紙の真ん中に「辻仁成さんへ、お祝い、内田裕也」と書かれてあった。当時、仲良しだったギターの三原のやっちゃんが裕也さんのバンドでギターを弾いていたと思う・・・。きっとそういう流れでお祝いが届いたのだと思う。もちろん、生まれてはじめて飲んだドンペリだった。でも、いきなりドンペリのマグナムは凄い迫力だった。それから、ドンペリを飲む機会があると裕也さんを思いだしている。実はバンドを始めた頃に「外道」というロックバンドが大好きで、(あの衝撃は忘れられないなぁ)彼らの、(本当のことは知らないけれど)内田裕也さんのことを歌ったと言い継がれている曲があって、「馬鹿な男のロックンロール」という歌詞が連呼される強烈な歌詞なのだが、(たしか45年ほど前のことだけど)、あの頃、僕は裕也さんのことをはじめて意識した。内田裕也という人はどうやらロックのカリスマらしいという噂が、少なくとも函館のロック少年たちの間では持ち切りだった。それから間もなく、あのフラワートラベリングバンドのプロデューサーが内田裕也さんだと知り、再び驚くことになる。さらには大学の映画研究会に所属し、8ミリ映画を撮るようになった頃、大学の先輩たちに連れていかれたミニシアターで見た映画の中でそのカリスマは天地をひっくり返すほどの勢いで存在を爆発させていた。「水のないプール」とか「十階のモスキート」「コミック雑誌なんかいらない」と彼が主演した映画(出演に留まらず企画とか脚本なども手掛けている)はこれまでの映画の常識を覆すもので、度肝を抜かれた。何をやってもこの人は全身ロックの人だ、と僕は毎回武者震いを覚えたものだ。一度、いつか映画でご一緒したいと思い続けたのだけれど、でも、この短い人生の中では叶わなかった。

歌がうまいとか、ヒット曲があるとかそういうことに一切関係なく、内田裕也さんくらいロックな人はいなかった。ロックとはこうだという人がたくさんいるけど、裕也さんが言う「ロケンロール」というのはたぶん、そういう理屈を超えていて、やれよ、みたいな凄みの塊であった。いろいろと世間を騒がせていたのは知っているし、新聞なんかでも事件っぽい記事を読んだことがあるが、でも、僕にはそういうことはどうでもよかった。内田裕也が日本にいるということが嬉しかった。

一度だけ、渋谷の神山町の交差点から少し登った路地の暗い十字路で、真夜中にすれちがったことがある。ライブの後でバンドマンらと何軒か居酒屋を梯子し、タクシーを降りて、寝泊りしていた事務所に戻る途中だった。路地の暗がりからあの白髪の裕也さんがふっといきなり現れたのだから、心臓がとまりかけた。闇を突き破るように、僅かに前傾で、もしかしたらステッキを握り締めていたかもしれないが、あのステッキが僕には剣のように見えた。刺されるのじゃないかと思わず身構えたほど。僕はその時かなり酔っていたが、一気に眠気が吹っ飛んだ。「あの」と声がフライングをして飛び出しかけたが、僕の声は闇の中に吸い込まれて消えた。この世の人とは思えないただならぬ気配があって、僕は闇をねめつけて思わず震え、そして、畏怖のせいかな、気が付くと笑っていた。振り返らないでくれてよかった、と思った。裕也さんが振り返っていたらどうなっていたことだろう、とあとで命拾いをした気分になった。遠くの路地へ去っていく内田裕也さんの後ろ姿だけが今も記憶に焼き付いている。8ビートのリズムが魂の奥を焦がした。ご冥福をお祈り申し上げたい。凄い人だった。 
 

滞仏日記「振り返らないでくれてよかった」