JINSEI STORIES
リサイクル日記「もう一度、自分の居場所で頑張ってみる」 Posted on 2022/08/17 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、あの頃、以降、世界がそれまでと違って見えるようになった。
僕の周りの人たちも大きく変化し、なんとなく、あらゆることが二つに分かれてしまったように思う。
二つというのをはっきりと言葉にし、区分できないのだけれど、分かり合えないものと分かり合えるものが出現した、というような感覚だろうか。
かつての僕は意味もない楽観に支配されて生きていたような気がする。
なんとかなる、といつも思って過ごしていたような気がする。
でも、ある時以降、なんとかなるという言葉を信用しなくなった。
なんとかしなければ、と考えることが多くなった。
天台宗の開祖、最澄の言葉に「一隅を照らす」というものがある。
昔、比叡山に登った時に山道の入り口の石柱に彫られているのを見つけ、僕の足が勝手に止まった。どういう意味だろう、と考え続けた。
これは調べると「山家学生式(さんげがくしょうしき)」という古い仏教書に出てくる。
ちなみに、僕には信仰がないので、天台宗の方々に失礼があってはいけないのだけど、最澄さんは僕の誤訳をもきっと許してくださるだろう。
一隅を照らすが登場する最澄の言葉は次のようなものだ。
「国宝とは何物ぞ/宝とは道心なり/道心ある人を/名づけて国宝と為す/故に古人の曰く/径寸十枚/是、国宝に非ず/一隅を照らす/此れ則ち国宝なりと」
ここでいう「道心」とは、道を修めようとする心のこと、仏教においては仏道を極めようとする心のことであろう。
「径寸十枚」とは金銀財宝のことで、「一隅」というのは今自分がいる場所、立ち位置、或いは今自分が置かれている立場のことを指す。
僕は勝手にこれを訳した。「まずは自身の道を究めることが大事であろう。しかしそれは人を押しのけて名声を高めることではなく、社会の片隅で人に気づかれまいと、この世界を照らし続ける無名の行動の中にこそあり、実はそれこそが社会の宝なんですよ」となる。
つまり、注目されなくても、自分の居場所で出来ることをコツコツとやることの大事さを説いている。
ベストを尽くすという言葉があるが、本来、こういうことじゃないか、と思う。
自分の居場所で自分に出来ることを精一杯やること。
最澄はその遠い昔に、現代の私たちが抱える大震災以降の心の在り方について、言葉を送ってくださったのじゃないか、と思った。
「一隅を照らす」というのは、隅っこに光りを当てるということだけじゃなく、その光りを当てている者も一隅の一部であり、その一部の人間こそがこの全体の世界を構成しているのだから、それぞれがベストを尽くそうとする思いが、或いは祈りが、この世界をもう一度照らす行動なのだとおっしゃっている気がしてならない。
ぼくの歌に「幻」という曲がある。
「日曜日の午後、誘われるまま、初体験のデモ行進、見ず知らずの人たちにまぎれこんで、輝く未来切望してる、通りの反対歩いていく、楽しそうなカップルを横目に、いったい自分は何をしたいの、いったいどこへと向かってる、変わり映えしないこの日常、幻なんかで終わらせたくはない、自分の居場所で踏ん張ってみる、試行錯誤の連続、生きてるのか死んでるのか、わからなくなってる今の自分、好きでいいのか嫌いになるのか、曖昧で無頓着なお前と、感情の海を渡りきれ、漂流するだけの昨今、路地裏に幻の光り射す」
これが二番の歌詞なので、一番と三番の歌詞を数えると一〇〇〇字もある長大な歌詞なのだけど、この歌は、ぼくなりの「一隅を照らす」行動なのである。
簡単に言うならば、コツコツ生きるということだ。
何も出来ないと否定するのではなく、今、自分がいる場所で、頑張ってみる、ことが人間は大事なのじゃないか、と気がついたのだ。
人間はスーパーマンじゃないので、出来ることは限られている。その前提の中で、自分に出来る範囲のことをやっていく。これが、自分の居場所で頑張っている、ということじゃないか、と思うのだ。
それが、一隅を照らす、ということじゃないか、と思うのだ。
そして、周りからどう思われようが関係なく、なんとか自分の場所で立ち上がるということでもある。
幻のような世界だけれど、ここで今日もぼくは踏ん張っているのだ。
ぼくもまた、一隅を照らしているのである。