JINSEI STORIES
滞仏日記「パリの夜、日本人たちが集まって祖国を懐かしむ」 Posted on 2019/03/06 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、夜になるとぞろぞろ友人が集まって来た。ベルギーでの仕事が終わり駆けつけたのは国際通訳の古垣内隆氏、お子さんに食事を拵えてからやって来た日本画家の釘町彰氏、そして日本文化会館の鈴木達也氏、こういう仲間たちと拙宅で飲酒をした。通訳がどこまで感情を交えて通訳をしていいものか、という話がとても面白かった。古垣内氏は何度か仕事をしたことがあるが、目が不自由なせいもあり、メモを一切取らない。前回のシンポジウムの時、フランス人の批評家が通訳を一切意識せず15分ほど一気に喋り続けるというハプニングがあった。古垣内さんは批評家が喋ったことをほぼ忠実に訳しきり拍手喝采をあびた。「いや、僕が目立ったりしちゃいかんのです」と謙虚に話されるが、メモを取らないで15分以上も他人が喋ったことを記憶し、フランス語から日本語に訳すこの神技は拍手喝采に値する。古垣内さん曰く、15分程度は一字一句記憶できるのだそうで、いったい、どういう頭の構造になっているのか、と昨夜は同席した者たちから質問が飛び交った。古垣内さんの風貌は背が高く、ほりが深く、カントとかヘーゲルじゃないがドイツの哲学者のような顔立ち、実際彼は哲学者なのだが、一度見たら忘れられない日本人離れした貌を持っている。20歳の時にパリに移り住んですでに40年以上が過ぎたのだとか。現在64歳だが、矍鑠としている。釘町氏も僕よりも長くこの地で生きている。僕も17年目の滞仏時間だが、祖国から一万キロも離れた場所でこうやって日本人たちと酒盛りをするのは実に不思議な気持ちにとらわれる。60代の古垣内さんは原宿生まれ、40代の釘町さんは佐賀生まれ、30代の鈴木さんが静岡で、それぞれの原風景を語った。思想、哲学、芸術、文化の話がほとんどだったけれど、芸術の都パリだからこその、時空を超えた文化談義は尽きることがなかった。
フランス文学者で哲学者の森有正(1911-1976)は第二次大戦後の1950年にフランスに留学している。彼はパリ大学の東洋語学校で日本語、日本文化を教えている。デカルトやパスカル研究の第一人者でもあるが、彼が残した日記が面白い。僕が日記を書いてみようと思ったのは彼の著作の影響もある。筑摩書房から何冊か出版されているけれど、特に興味深く読んだのは、1950年代のパリで生きる日本人たち(学生や学者や芸術家など)との交流のくだりで、当時、どのくらいの日本人がパリにいたのかはわからないが、昨夜の僕らと同じように、当時も今と変わらず、在仏日本人たちが夜な夜な集まっては議論を繰り返していたようだ。その時代の彼らの議論の内容と今日僕らが話しているものとどのくらい違いがあるのだろう、と思った。僕の家は120年前の古い建築物なので、森さんが生きていた頃にももちろん存在している。このような天井の高いオスマン調の建物の伽藍とした部屋で酒なんかを持ち寄って日本人らが車座になって話をしていたのだろうな、と想像しながら、みんなの話に耳を傾けた。時代が変わったが語っている内容はあまり変わってないのじゃないか、とも思った。通訳の難しさや、哲学を理解すること、画家の私生活とか、外務省の外郭団体である国際交流基金について・・・。半世紀も前にこのパリで生きた森さんのような日本人たちの苦悩と目の前にいる三人が抱える現代の苦悩がそれほど違わないのが興味深かった。余談だが、パリ万博が行われた19世紀末に日本人が経営をする画廊がパリにはすでに存在していたらしい。いったい、どうやってこの地でそのような大昔に画廊なんてものを経営出来たのだろうと考えると、日本人の行動力の大胆さに驚かされる。
僕は多くの締め切りを抱えていたので、知り合いの料理人に今日は晩御飯を作ってもらった。鯛こぶ締めとか、割り干し大根とか、厚揚げとか、とんかつとか、トン汁とか、鯖玄米ご飯とか、とてもパリとは思えない料理がずらりとテーブルを埋め尽くした。30代、40代、50代、60代とバラバラな世代の日本人だったが(10代の息子もそこにずっといた)、祖国を懐かしむ時の目は同じ色であった。きっと、世界中に、ロンドンにも、ニューヨークにも、北京にも、モスクワにも、我々のような在留邦人が大勢いて、夜な夜な集まっては日本を懐かしんでいるのだろうな、と考えると、口元が緩んだ。息子が席を離れず、ずっと彼らが話す祖国の思い出話に耳を傾け続けていたのが心に残った。パリ生まれの息子にとって、それはそれでまたいい経験であったはずだ。楽しい夜であった。