JINSEI STORIES
滞仏日記「人間万歳」 Posted on 2019/03/03 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、僕はかなりポジティブな人間だと思うが、ポジティブ過ぎて自分にへとへとになってしまうことがある。
ポジティブという言葉に騙されてはならない。
実はポジティブがネガティブを連れてくるのだ。
前を向き過ぎる人には必ず反動が訪れる。
基本ポジティブ、時々ネガティブくらいが実は丁度良かったりする。
百パーセントポジティブなんて一番危険かもしれない。
人間は一生ポジティブでいられるわけがないのだから。
前向き前向きと言い続けガンガン仕事をしていたらある日、不意の病にかかったように心が抜け殻になることもある。何事も適度がいい。
ここ最近、息子がバカンス休暇ということもあり、朝昼晩と料理をしないとならず、料理は好きにしても、家事と仕事の板挟みで疲れが出てしまい夕方、ついに身体が意志を拒絶した。
息子の「今夜、何食べんの?」がその引き金となった。
僕は部屋の真ん中で立ち尽くし、何食べんのじゃねぇよ、と思った。
そこで、冷凍食品を温め、ずらりと机の上に並べてから家出した。
行く当てはなかったが、たまたまフランス人に、バーを貸し切って誕生会やるから来いよ、と誘われていた。
その知り合いの顔さえ思い出せない。
たぶん、連絡先を交換したことのある誰かで、知人に一斉送信されたものが僕のところに届いたのであろう。
こういう時はどこでも構わない。
顔馴染みのバーやカフェはダメだ、ほっといてくれる場所、何者でもない自分になれる場所がいい。
この誰だかわからない人の誕生日会は丁度良かった。レピュブリック広場近くのバーに顔を出すと、着飾ったフランス人たちが乱痴気騒ぎをやっていた。
僕は角の席に陣取り、ウオッカを舐めながら、その喧噪をじっと眺めた。
頭が空っぽだった。意味不明なフランス語が耳に飛び込んできた。
キスをしているカップルもいれば、一心不乱に踊っている人もいる。
面白いくらいみんな笑顔なのだった。
不意に頭の中が真空になった。
うるさ過ぎて、頭の中のブレーカーが降りてしまった。
音が消え、目の前の人たちの動きがスローモーションになった。
僕からすると見知らぬ外国人なのだけど、一人一人はそれぞれ表情が異なって、そんなに悪そうな人には見えない。
遠くから見ていると人間はみんないい人に見える。
近づくと面倒くさくなる。人間とはそういうものだ。
だから、このくらいの距離で、ポジティブとネガティブのあいだ、くらいの位置でぼんやり眺めているのが丁度よかった。
すると、何かが聞こえてきた。頭の中を聞き覚えのあるメロディが過って行った。
まるで天から指す尊い光りの筋のような・・・。
ZOOという曲の一節であった。
『ほ~らね、そっくりなサルが僕を指さしている、き~とどこか似ているんだ、僕や君のように、愛をください』
僕は口ずさんでいた。
そっか、みんなこうやって人生を乗り切っているんだ、と思った。
するとなんとなく楽しくなってきた。
そこにいる水知らずの人たちに何かうっすらとした愛を感じたのだ。
この瞬間、ここで一緒にいることの一期一会を・・・。
踊っていた女の人が僕の前にやってきて、一人ポツンと座っている僕に向かって踊ってくれた。
「元気出しなさいよ、人生楽しみなさいよ、ほら、踊りなさいよ」と言われたような気がした。
僕はグラスを持ち上げ、笑顔を送った。そういえば、下北の改札口で人々を眺めながらZOOの歌詞を考えた。
改札から出てくる仕事帰り、学校帰りの人々の顔を眺めながら、空っぽの心を抱えて、僕はこれらの言葉を紡いでいったのだ。
あれは、35年以上も前のことになる。
でも、僕はまだこうやって生きている。
それはすごいことじゃないか、と思った。こうやって動物園のようなこの世界の中で、いろんな人生を抱えて頑張る人たちに囲まれて、僕もまだ生きている。
悪いことばかり見ていても仕方ない。
人間はみんな大変で、でも、こうやって見ず知らずの人たちが出会っても笑顔を交換できるのだから、人間万歳だ、と僕は思った。
そうだ、人間万歳。
さ、息子の待つ、家に帰らなければ・・・。
僕たちはこの街じゃ、夜更かしの好きなふくろう、
ほんとうの気持ち、隠している、そうカメレオン、
朝寝坊のにわとり、徹夜明けの赤目のウサギ
誰とでもうまくやれるこうもうばかりさ、
みてごらん、よくにているだろう、だれかさんと、
ほら、ごらん吠えてばかりいる、素直な君を・・・
白鳥になりたいペンギン、なりたくはないナマケモノ
失恋しても片足で踏ん張るフラミンゴ
遠慮し過ぎのメガネザル、蛇に睨まれたアマガエル
ライオンやヒョウに頭下げてばかりいるハイエナ
見てごらん、よく似ているだろう、誰かさんと
ほらごらん、吠えてばかりいる、素直な君を・・・。