JINSEI STORIES

滞仏日記「パリの都市伝説、ネズミの怪談」 Posted on 2019/02/28 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、ほんとうに大変な一日となった。実は遡ること一週間前、「キッチン、臭うね。冷蔵庫のあたり」と息子が言い出した。それほど気にしてなかったが、臭いがだんだん酷くなり、鼻をつままないとキッチンに入ることができなくなった。YouTubeの2Gクッキングの撮影で使っている自慢のキッチンだ。小説を書きあげた後のほっと一息ウイスキータイムに、孤独に哲学する時、朝ご飯や夕飯を作る場所であり、何よりそこは僕の愛すべき居場所、聖地のような場所でもある。でも、臭いが酷くて近付けなくなった。今年に入ってからチリ人のブレタさんに週一回、家事を手伝ってもらっている。仕事が増え、息子はまもなく高校生になるし、体調のことを考えたら、僕一人では厳しくなった。彼女はいつも笑顔で、優しくて、力持ちで、頼り甲斐のあるチリのお母さんだ。それで異臭のことをブレタに相談した。「もしかして、ネズミがいるのかな?」と。するとブレタは「ええ、旦那様。私は見たことがありませんが、しかし、ここはパリです。いないわけがありません。しかも、この建物は19世紀末のかなり古い建築物ですからね」といつもは笑顔なのにわざと怖い表情でしかも声を潜めて言った。「一説によると、ここパリではネズミの方が人間よりも多いといいますからね。その数、500万匹」僕はその数字でのけ反った。ブレタはさらにオカルトチックな顔で、「地下室で毒の餌を食べたネズミがここまでふらふら登って来て死んだのかもしれません」と恐ろしいことを言い出す始末・・・。「なんてこと言うんだ、君。この酸っぱい臭いの元はネズミの死骸だというのか!」僕は眩暈を覚え、倒れそうになった。世界で一番怖いのはゴキブリだが、次に怖いのがネズミである。パリでゴキブリを見たことがない。でも、ネズミは人間よりも多い。「確かに、ネズミの死骸はこのような酸っぱい匂いになります」ブレタが目を細め科学的な結論を導き出した。管理組合が業者に頼んで大量のネズミの毒餌をばらまいていることは住人なら誰もが知っている。ブレタが箒で顔を半分隠しながら「毒入りの餌を食べるとネズミは数時間後にアジトで死ぬんですよ。そして、その死骸を仲間のネズミが食べるじゃないですか、すると、その毒が回って、一族は壊滅するという恐ろしい仕組みなんです」ブレタが目をひん剝いて、「旦那様、この壁の向こう側で大量のネズミが死んでいるかもしれませんよ」といきなり壁を指さして声を張り上げた。僕は失神しそうになった。「ブレタ、頼む、なんとかしてくれ!」するとブレタは力なく首を左右に振って、「すいません。もう時間ですので帰らなければなりません。健闘をお祈りしてます。また、来週」と楽しそうに言い残して、本当に帰って行ってしまった。

しかし、この臭いをこのままにしておくわけにはいかない。犬のように鼻をくんくんさせて臭いの出元を探した。やはり、冷蔵庫の周辺から臭ってる。冷蔵庫はすっぽりと壁のホールに納められてある。その隙間に鼻を押し付けて嗅ぐと確かに臭う。臭いは冷蔵庫の裏側から来ている。ブレタの言葉が蘇った。「この壁の向こう側で大量のネズミが死んでいるかもしれません」僕が途方に暮れ、頭を抱えていると、息子がやって来て、「今、ブレタさんから聞いたけど、まず冷蔵庫を引っ張り出そうよ」と言い出した。息子が打ちひしがれたか弱き父を押しのけてしゃがみ込むと、まるで重量挙げ選手のような勢いで重たい冷蔵庫を動かし始めた。それはまるで旧約聖書に出てくる怪力の持ち主サムソンみたいだ。そんなことができるとは、僕は想像さえできなかった。けれども我が息子はあの大きな冷蔵庫をじりじりと持ち上げ動かしている。おお、凄い! 頼もしい。ところが、巨大な岩が動くとそこに洞窟が出現した。正確には穴じゃなくて、換気用のダクトだった。120年前に建てられた建物の真ん中にこのような縦穴が存在していただなんて・・・。今は何らかの理由で閉鎖されているようだ。位置的にはすぐ向こう側に螺旋階段があるはずだった。或いはもともとここに裏階段があったのかもしれない。パリの古い建物は表のお客さん用の正階段と裏に屋根裏部屋へと通じるお手伝いさん用の裏階段があった。「おーい」と息子が穴の底へ向けて叫んだ。もちろん、返事はない。「パパ、ここにネズミはいないと思う」息子が指を唾液で濡らして、風の動きを調べながら結論づけた。「管理組合だって馬鹿じゃない。このダクトは密閉されている。それが証拠に、ほら、風が抜けてないでしょ。それに一つ気になっていたのは、ネズミがいるならば、そこかしこに小さな糞があるはずじゃないか。大量のネズミなら山盛りになっているはずだけど、冷蔵庫ホールにもキッチンにも何もない」「そうか、じゃあ、何だ、この酸っぱい腐った死骸のような臭いは?」息子はまるでシャーロック・ホームズのような感じで腕を組んで考え込んだ。「ものごとには必ず理由や原因がある。もう一度、原点に立ち戻って考え直すべきだ」「原点だと?」「うん、臭いは冷蔵庫ホールからしたんだよね?」僕らは冷蔵庫を振り返った。息子がしゃがんで、冷蔵庫の裏側のモーター付近を嗅ぎ始めた。「どうした?」「いや、ネズミが感電してないかな、と思ってさ」と言い出し、笑った。僕が驚きのけ反った次の瞬間、息子が「分かった」と大きな声を張り上げた。「見て!」息子がモーター上の霜取り器の中を指さしている。覗くと中に黄色いスライムのようなものがへばりついていた。「犯人はこれだと思う」息子は言うなり、割りばしを持ってきて、その黄色い物体を擦って取り出した。「臭い、これだよ!」息子はニヤリと笑った。「パパ、最近、冷蔵庫の中で何かこぼさなかった?」言われて、思い当たることがあった。ちょうど一週間前に手が滑って牛乳を大量に零したのだ。「見てよ」と息子が今度は冷蔵庫を開けて中を指さしながら言った。急いで回り込み覗くと、野菜室の上に小さな穴がある。雨どいのような仕組みで、僅かに傾斜した側溝の真ん中に穴があった。そこになんらかの要因で霜が解けて出来た水が流れ込む仕掛けになっていた。それは管を通じて裏へ、モーターの上の霜取り器の中に溜まり、熱で蒸発する・・・。なるほど、と僕は唸った。「一軒落着だね。でも、せっかくだから、この穴を塞いでおこう。ネズミはいないと思うけど、こんなに大きな穴が家の中にあるのは気持ちよくないからさ」息子はそういうとどこからともなくビニールとテープを持ち出して来て、作業を始めた。息子のこの成長ぶりはいったいなんだろう、と僕は息子を見下ろしながら小さな感動を覚えていた。ともかく、また今夜からキッチンで一人晩酌が出来るし、ネズミの死骸でもなかったし、息子は頼りになるし、それは僕にとって何よりなことであった。
 

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