JINSEI STORIES
滞仏日記「挨拶のできない人間にはなるな、と僕は息子を叱った」 Posted on 2019/02/27 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、生きていると思わぬところから無礼な態度や失礼な行為を受けることがある。怒る前に、なぜ、この人はこんなに無礼なのか、失礼なのか、と考えなければならない。それはその人が自分に関心がないからに他ならない。それ以前にその人は人間としての礼儀の基本を知らないということだ。礼儀とは何か、と僕はここパリで考える。他者に敬意を表す作法のことだ。何人であろうと、どのような民族であろうと、いかなる信仰があろうとなかろうと、ちゃんとしてない人間は挨拶一つまともにできないし、無自覚で横柄なことをしでかす。つまり礼儀がない。ビジネス相手に頭を下げる見せかけの礼儀のことではない。人間としての人間に対する礼儀のことだ。僕は滅多に息子を叱らない。息子が僕に偉そうな口をきいても子供のことだし、親への甘えもあるし、と結構多めにみてきた。けれども、外では別である。たとえばスタッフが空港に迎えに来てくれた時があった。ところが息子はもぞもぞと小さく自分にわかる範囲でたぶん挨拶をしたのだろう。でも、それは失礼な挨拶である。だから、場所も弁えず、僕はその人の前で息子を徹底的に怒った。これは親の責任であろう。挨拶一つきちんとできない人間がひと様ときちんと関係を構築することなど出来るわけがないし、そもそも挨拶が出来ない人間を育てている自分に腹が立つ。人生で関わる全ての人に挨拶は成功以上に大事なのだ。お金になるから、成績を付ける先生だから、お金持ちだから、挨拶をするのじゃない。生きていることへの当たり前の感謝を持って人は他者と向き合うことが基本である。はじめまして、と、ありがとうございました、と、さようなら、がまずちゃんと言えないことにはどうにもならない。そこで僕は息子にそのことだけは口をすっぱく言い続けてきた。「言ったよ」と反論する息子に、「ちゃんと相手に届かない挨拶は逆に失礼だ」と怒鳴った。そのかいあって、やっと最近、とっても素敵な挨拶が出来るようになってきた。「息子さんちゃんとしてますね」と褒められたりするようになった。これはどういうことかいうと「この子はやっていける、この世界で生きていける」という他人からの太鼓判なのである。僕は成績のことは滅多に言わない。最近は成績表さえ見ない。息子よ、お前がそれでいいのならそれは自分で頑張ることだ、とだけ言う。でも、挨拶が出来ない人間、ふっと消える人、他人を馬鹿にする人、生き物へのリスペクトのない者へは怒りに終わりはない。ましても自分の息子に厳しいのは当然であろう。
先ごろ、新世代賞の授賞式があり、そこに多くの学生たちが全国から集まった。僕は信頼できる数人にある程度のことを任せていた。ところが式の冒頭で、この新世代賞の理念をいきなり見知らぬ人間がこともあろうに創設者である僕や受賞した子供たちの前で語りだしたのだ。僕の心臓は止まりそうになった。その人物が何者なのかきちんとした説明もなかったし、ましてやその人から挨拶さえなかった。僕は一言もその人物と会話が出来なかった。その人は数分喋った後、どこかにいなくなり、僕は探したのだけど、次々にやってくる子供たちの熱い質問と向きあう方が大事なので、結局、その人を見つけ出すことができなかった。多分、偉い人なのであろう。名士かもしれない。でも、僕は失望をした。新世代賞を熱い思いではじめ、続けてきた僕が何も知らないということが理解できないし、困惑させられる。その人物が語った新世代賞の理念はもちろん1ミリも理念なんかであるはずはなく、なぜそういうずうずうしいことが出来るのかもわからない。子供たちや来賓の皆さんに申し訳ないと僕を深く恥じいらせた。そもそも、その人がなぜ選ばれて出てきたのか、という疑問ばかりが残った。これは信頼をした僕にも責任がある。まさかの想定外の事態であった。こういうことは今後も起こりうることだろう。挨拶が出来ない人間を見過ごすことが僕にはできない。たかだ、挨拶程度の問題、と切り捨てられるだろうか。授賞式は素晴らしく、学生たちの質問が最後の1秒まで続いたのも確かだ。だからこそ、そこを台無しにしてはいけない。スタッフも素晴らしく、集まった鎌倉の方々の関心も高かった。いや、だからこそ、申し訳ない。それがもしも僕の息子なら、とっつかまえてなんで挨拶をしないのだ、と怒鳴りつけていたことだろう。いや、他人でも僕は言う。挨拶は人間の基本なのですよ。そのことだけはどうか理解していただきたい。同じ人間として、親の気持ちで、言わせていただく。