JINSEI STORIES
滞仏日記 「英国よ、どこへ行く」 Posted on 2019/01/29 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、最近、僕がもっとも関心を持って見守っているのは英国のEU離脱である。正確には英国の合意無きEU離脱というべきであろう。そもそも英国がEUからどうしても離脱しなければならないのか理由がよくわからない(当初はEU経済に対する不信感、移民流入に対する国民感情と言われていた)。ま、よくわからないのにどんどんこの出来事は前進し続け、まさに対岸の大火事となった。少なくともフランスに住んでいる僕にはそう見える。でも、実際に3月末、合意無き離脱が実現したら英国はこれまでの英国という立場を失くすことになるかもしれない。どうなるかは誰にもはっきりとはわからないけれど、国民を乗せたロケットを英国は意地でも発射させようとしている、ようにさえ思える。でも、どこへ? 去年も一昨年も僕は何度かロンドンに仕事で出かけて、間違いなくロンドンが欧州一の都市であろうと実感した。東京よりも世界の経済金融への影響力があるように思えたし、ロンドンはパリなんかよりも何倍も巨大で、エネルギッシュだった。物価も高く、ユーロスターでパンタクラス駅に降り立った途端、「英国人ってフランス人よりリッチ」と思ってしまった。一頃は何もかもまずかったがそれも大幅に改善され、どこで何を食べてもフランスに引けを取らない水準にまでレストランの味は向上した。英国のイケイケ感は半端なかったのに、何を血迷ったか、というのが僕のブレグジット問題に関する率直な感想だ。熱にうなされる英国民には押し寄せる暗い未来は見えてないのだろうか? 小さな疑問が幾つかあって、英国は去年から艦隊と英国海兵隊を北東アジアに展開させている。これは非常に珍しいことで、中国へのけん制も考えられるが、兵器輸出のためのデモンストレーションとの憶測も飛び交っている。しかし、ブレグジット後、英国に北東アジアに艦隊を置いておくだけの余裕があるとは思えないのが僕の本音で、というのはブレグジットになれば英国の経済は彼らが想像しているよりもうんと大きな打撃を連れてくるからである。信じられないことだが、英国はもしかすると自分たちの立場をよく理解できていないのじゃないか・・・。
英国の食糧自給率は低く、特に野菜などは完全にEU頼り。しかし、離脱をこの状態で強硬した場合、EUからの生鮮食料品が今までのような勢いで、スルーで届くことは難しくなる。ユーロトンネルや港の税関は機能できるのか? 今まではフリーだったのに、急に全ての商品に税関のチェックが義務付けられる。もっともやっかいなものが生鮮食料品の検閲問題だ。税関はどうやってこれだけの量を捌くシステムを短期間で設え、導入するつもりであろう。あらゆる輸出入関係者は一つ一つ商品を申請しなければならなくなり、まず陸運業界への影響は壊滅的だろう。食べ物の怨みは怖い。空腹になった英国民の鬱憤はどこへ向かうのだ? それだけじゃない。極端な話、旅客機だって飛ばなくなる可能性がある。英国人は今までのようにビザなし渡航が出来なくなる。これらが不意に起こった時の対応策すらまだまとまってない印象がある。一つの混乱がもう一つの混乱を招き寄せ、さらにもっと多くの大混乱へと膨らんで、そのことで国民が不満を募らせ、移民問題どころではなくなり、内政に深い深い亀裂を生みそうだ。個人的な杞憂として、北アイルランドで再びきな臭い争いが起こるような気がして仕方ない。EUがしきりにアイルランド支持を打ち出しているのも気になる。こんなことがもう間もなく現実のものとして英国を襲おうとしている。
もう少し世界全体を見てみるとよくわかる。トランプ大統領のメキシコとの国境の壁にブレグジット以降の英国の姿が影響を与える可能性もある。円高ポンド安、円高ユーロ安の展開になりそう。英国を見習おうとしていたイタリアなど欧州各国の極右政党に英国の失敗がある一定の抑止的効果を与える可能性もある。ブレグジットで移民の排除は進むかもしれない。しかし、そのせいで経済は低迷し、英国民の税金負担は増え、ポンドの価値が下がり、英国経済は暫く低迷する可能性がある。欧州内の離脱派も勢いを削がれる可能性がある。逆に、EUにとっては都合のいいEU結束の引き金となり、英国はトカゲのしっぽとなる。蓋は開けてみないとこのEU離脱鍋の出来栄えはわからない。でも、かなり鍋底に焦げ目が出来ていて、もしかしたら、料理を楽しみにしてた英国人たちが蓋を開けた途端、焦げた匂いで誰もが鼻をつまんでしまう結果も大いにありうる。その先の欧州や世界の動きについて、僕らはそろそろ想像をしておく必要がある。これは英国民にとって決まったことだけど、今の英国民の大多数が離脱を望んでいるとは思えない。予期せぬ選挙結果、勢いの不運が英国に想像さえできなかった暗い影を落としはじめている、と対岸にいる僕は観察しているのだけれど、・・・さあ、どこ行く、イギリスよ。