JINSEI STORIES
滞仏日記「一人がいい、パリの冬裏技、夜カフェ」 Posted on 2019/01/28 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、一人きりになりたい夜はある。子育てや家事に人生の大半を奪われるのはよくない。子供にとっても親がべったりというのはどうだろう。引きこもり作家の僕はおうちが大好き。でも、たまには飲みに出かけたくなる夜もある。ということでお気に入りのマントを羽織り、ふらりと夜カフェに出かけた。「ちょっと飲んでくるね」と僕は息子に言い残す。「うーん」と許諾の声が遠くから打ち寄せられる。僕の出で立ちときたらまさに風変わりな日本人なので、界隈ではだいたいの人が僕の存在を知っている。近所の料理店店主は僕のことをマエストロと呼ぶ。それでも自慢の長髪を短くしてからはこのスタイルがしっくりくるようになった。
観光客の人に良く聞かれることがある。「辻さん、バーはどこにあるんですか?」パリのバーはだいたい高級ホテルの中にある。リッツのヘミングウェイなどが有名だが、何も高いお金を払ってわざわざそんなところで飲む必要はない。ゴッホが描いたあの有名な「夜のカフェテラス」ではないが、まさしく夜カフェに行けばだいたいのものは飲めるし、特に冬のパリのバータイムは混んでいないし、18時から20時まではハッピーアワー、カクテルは半額だ。一人を満喫するには最高の隠れ場所かもしれない。ル・ボンマルシェにほど近い行きつけのカフェの窓際の席に陣取って、ちょっと風邪気味だから、まずグロッグを注文した。(友人のバーマン、ロマン曰く、酒ばかり飲んでいた海賊が飲み過ぎて翌日の闘いに負けるので館長がラム酒を水で薄めて飲ませるようになったのがグロッグ誕生の秘話なのだとか・・・。これは記事を配信した夜に仕入れた最新情報、加筆)ラム酒をお湯で割っただけのシンプルな飲み物だけど、風邪を引いたフランス人が必ず寝る前に飲む。レモンとかオレンジなどの柑橘類と一緒にシナモンとか角砂糖なども付いてくる。はちみつレモンのラム酒版だと思ってもらっていい。来週は東京で今年最初のライブがある。こういう時、喉を労わりながら飲むのにも最適で、この季節には欠かせない。身体がポカポカと温かくなる、フランスの冬のおすすめである。
これと双璧をなす冬の夜カフェの定番がヴァンショーだ。赤ワインにシナモンやグローブなどのスパイスを入れて温め、やはりオレンジなど柑橘類が添えられる、いわゆるホットワインのこと。僕は甘いのが苦手なので「砂糖少な目」と注文する。渋みと甘みとスパイスのバランスが冬のパリには欠かせない風味を醸し出す。その後はもう野となれ山となれ。ちょっと強めのアルマニャックとかマールとかでとどめを刺す。
一人が最高だ。誰かと意味もない会話を繰り返すより、こうやって強いアルコールに思考を揺さぶられながら将来のことをイメージするのは悪くない。人間は一日のうちに数時間は寝る間を除き一人になる必要。僕の場合は息子と離れて、自分のための時間を持つということだ。孤独という言葉より一人になるという方が正確かもしれない。大勢の中にいるとなぜか寂しさは増して、気疲れする。気を遣う自分に出会うのもうんざり。周りの世知辛い出来事からちょっと距離を取り、自分の今を見つめ直すために孤独な時間が必要。何か特別なことを考える必要もないが、自分と向き合うというのか、自分を点検するための自分の時間。自分をかまう時間とでもいうのかな、自分をほったらかしにしない、今の自分が大丈夫かを点検する時間が人間には大事なのだ。そういえば外国に出始めた20代の中葉、僕はいつも一人旅を好んだ。誰かと行く旅は疲れ切る。どうでもいい歯磨きやタオルのことなんかで喧嘩になる。でも、今は時間がないから、一人旅は難しい。金魚の糞のように息子が必ずくっついてくる。ま、それも今だけの楽しみがあるのだけど・・・。
ゴッホが描いた南仏のアルルのカフェに行ったことがある。立ち寄ってみてびっくり、ごくごく普通のカフェだった。あの絵が描かれたのは1888年ごろの話だけど、当時、今と変わらないあのような可愛いテラスのある夜カフェがアルルにあったんだね。まだ無名のゴッホはそのカフェの光り、とそこに集う人たちの様子をじっと見つめていたに違いない。そういう意味じゃ、画家こそ、孤独な仕事だ。ちなみに、ここのカフェは現在、カフェ・ファン・ゴッホと名乗っている。一人になれる幸せが夜カフェにはある。閉店間際の一時間前に入れば誰もいなかったりする。給仕たちは片付けの準備に追われていて、僕に構う時間などないからだ。しめしめ。