JINSEI STORIES
滞仏日記「フランスの母親が戻って来た」 Posted on 2019/01/26 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、僕にはフランスに一人とっても大事なお母さんがいる。その人はずっと僕のことを「私の可愛い日本の息子」と呼んでくれていた。それは20年ほど前のことに遡る。けれども、僕のせいで、たぶん、僕はその人に悲しい思いをさせ、形として裏切った。きっと、そうだと思う。そのことで僕はずっと心に悲しみを抱えて生きることになる。このことを日記に記しておく必要があると思い、今こうやって認めている。1999年に僕はフランスでフェミナ賞を受賞し、初めての翻訳本がフランスで出版された。メルキュール・ド・フランスという老舗の出版社であった。担当編集者はマリーピエール・ベイさん。僕の母親と同じ年齢だった。現在も僕の本はガリマール社の文庫「folio」に収められている。ところが当時の日本のエージェントがそこを離れてもっと勢いのある出版社で出さないかと持ち掛けてきた。悩んだが、日本ではいくつもの出版社で本を出すことはごく普通のことだった。そのエージェントを信じて僕は別の出版社で本を出した。マリーピエールにはその経緯を手紙で送ったが返事は戻ってこなかった。後で知ることになる、フランスの作家はずっと一つの出版社で出し続けるのがもっとも大切なことなのだとか。渡仏間もない僕にそんなことが分かるはずもない。ところが当時の日仏文学の研究者が、出版された「太陽待ち」フランス語版に百ヶ所近い削除があることを突き止めた。削除された箇所を細かく文書でまとめ、出版社とエージェントに抗議をした。日本在住のフランス人エージェントがやって来て、よく覚えている、ボンマルシェのカフェで、「フランスで生きていけるのかな」という出版社のメッセージとかを微笑みながら投げつけてきた。(本当にその出版社が言ったことか、今、思い返せばなんの確証もない。彼女がそう言っただけで、それが真実のメッセージかわからない)ともかく僕らは言い合いとなった。契約書は何のためにあるのか、エージェントは作家の味方ではないのか? と僕は告げた。子供が生まれたばかりの頃で、今よりもずっと不安定な生活状態にあった。その時ほどフランスを憎んだことはないし、フランス人に腹が立ったこともない。でも、一人や二人のフランス人に完璧なフランスを求めるのは間違いである。一部の愚かな日本人が日本を代表することがないように。弁護士を立て、先方の出版社に抗議をし、現在刷られた本が終わったら出版は終了するという約束を交わした。(こんなことまでしなくても目をつぶれば、誰も分からないことかもしれない、でも、知ってしまった僕は許せなかった。自分が紡いだ言葉が作者の知らないところで百ヶ所も削除されているとは・・・。しかも、謝罪など一切なし)そのことは終わったことだが、問題なのは最初の出版社の担当、マリーピエール・ベイとのその後の関係であった。彼女は僕のフランスの母親を自任していたが、こんなことをしでかした僕に謝るすべもなく、結局僕は生活に追い回され、この問題から逃げだしてしまった。そして、この十数年、別の出版社を転々とすることになる。本が出る度に思うのはいつもマリーピエールのことだった。
ところが先日の日仏文化シンポジウムがきっかけで僕らは再会を果たした。この辺もいろいろと間に入って繋いでくれた人たちがいて、まあ、でも、結局、僕の前に再び現れたマリーピエールは「私の日本の息子よ」と言って僕を抱きしめてくれた。「その悲しい出来事はもう忘れなさい。あなたは私の大事な息子に戻ればいい」と。今日、僕らは彼女のオフィスで会った。昔のような関係がこうやってまた戻って来たことに正直驚きを隠せない。当時の状況について、彼女は十分想像していた、と告げた。そのようなことはあっちゃいけないことだ、と付け足した。「ところであなたは何を書いているの? 急いで本にしましょう。私には時間がないから」。僕は最新刊の「真夜中の子供」を手渡した。さあ、この夢のような出来事がどのような未来を再び運んできてくれるのかはわからない。しかし、再びこうやってフランスの母親と再会できた事実が苦しんだ20年間の僕を救った。憎んだフランスを愛せるようになっていてよかったと思った。20年という歳月のおかげである。マリーピエール・ベイは83歳になっていた。
(追記、この写真はベイさんが大事に持っていたもの。20年前、僕が39歳の時、メルキュール・ド・フランス社を訪ねた時だと思われる)