JINSEI STORIES
滞仏日記「ジレ・ジョーヌ」 Posted on 2018/12/10 辻 仁成 作家 パリ
某月某日、子供を学校に送り出した。毎朝のことだが、冬のパリは暗くて、寒くて、朝はきつい。午前7時ちょうどに子供部屋と僕の寝室の両方で目覚まし時計がほぼ同時に鳴る。僕はキッチンに行き息子のための朝食を作る。息子はそれを食べて7時40分ちょうどに家を出る。暗い階段に飛び出す勇敢な我が子よ。階段の明かりをつけるのは僕の役目で、螺旋階段の下を覗いて、いってらっしゃい、と日本語をはり上げる。返事はない。返事をしているのかもしれないが、聞こえない。
この数週間、パリは不穏な日々が続いている。とくに毎週末の土曜日は黄色いベストを着た人たちが暴力的なデモを繰り返している。1968年の5月危機の時に似ていると、近くのパン屋の老婦人が言った。ガソリン税の値上げに端を発しているが、マクロン政権への不満がその根っこにはある。オランド大統領も不人気だったがここまでの暴動はおこらなかった。フランスはどこへ向かっているのだろう。そして、14歳の息子を抱える僕はどこへ向かっているのであろう。
午前中は新作小説の執筆に向かう。二つ同時進行しているが、一つの下書きが終わったのでここから推敲に着手する。小説家というのは不思議な職業だと思う。会社はないし、給料もない。書かなければ食えないのでどんどん書く。今、気がついたが、すばる文学賞を受賞したのが1989年の10月だから、なんと来年で作家生活30周年ということになる。よくあてもなく書き続けてこれたものだ。よくぞ物書きというあいまいな職種で生きてきた。よく書くことがなくならないものだ、と自分に呆れてしまう。百冊近い本を出版してきたが、書くことがない時こそ、そういう時代だからこそ、書かねばならないというのか、モノを生み出さないとならないと思ってしまうこの貧乏性の作家根性のおかげかもしれない。朝、女性自身の担当編集者梅林さんからラインで(今時の編集者はラインなのである)、連載の中身について相談があった。人生相談というものを今まで絶対に受けなかったのだが、ようやくそれを受けようと思えたのはなぜだろう。それだけ年を重ねたからか。来年、年齢の方も大台に乗る。振り返るとそれなりに大変な人生を生きてきた。その苦い経験から相談を受けることが増えた。人生相談というものが自分にとって新しい創作方法になるかもしれないという好奇心もある。思えばいつも好奇心を優先してきた。やってくる仕事ではじめてのものはだいたいお受けしている。で、ダメだと思ったら二度としない。早川書房ではじめて絵本の仏語翻訳もやった。昨日そちらは脱稿したのだ。人生相談をまるで小説を書くように書いてみたい。梅林女史は僕の担当編集者の中で一番年下の編集者だ。芸能人の離婚をスクープしたと喜びのメールを頂戴することもある。若いというのは無謀が財産だったりする。その無謀がもはや羨ましい。
作家生活30周年を来年に控え、ここは死力を尽くして執筆にまい進したい。まずは文芸春秋と竹書房の書下ろしが同時進行している。二つの作品を同時進行しているけれど、同時に映画「真夜中の子供」も進んでいる。頭の中をよく心配されるが、こういうことも長年続けていると苦も無く分離して進めることができるようになる。この日記では、そういう何足ものわらじを履いている自分を分析していきたい。子育てやフランス生活のことも今まで自分では見ようとしてこなかったが、滞仏20周年を前に、活字にすると不思議な自分のいろいろがわかってくるのではないか。日記は記録じゃなく哲学なのだと思い始めたことが執筆の動機かもしれない。さて、どれほど続くのか見ものである。17年もこの不思議な国に暮らしているのだから書く権利はあるだろう。暮らしてないと見えないものがある。日本の新聞にフランスのことが書かれているのを読むと「温度差があるな」と感じることが多い。今のパリ暴動も大変なところは一部だったりする。息子は普通に学校に行き、帰ってくる。黄色いベストを着た人たちとすれ違うが、あのベストは車を持っている人ならだれもが携帯しておかないとならない義務付けられたベストで、だから逆をいえばだれもがジレ・ジョーヌ(黄色いベストの人)になることが出来るのだ。この僕だって! 義務付けたのは政府である。ドライバーが事故を起こした時にそのベストを着て救援を待ってほしいという安全対策からだが、そのことを逆に利用してベストを纏った彼らはガソリン税への反対運動を起こした。その黄色い信号のようなベストが政府への不満を象徴する不運な結果になっている。マクロン大統領が今夜フランスで自ら説明するらしいが、事態を収拾できるのか大統領の手腕が問われている。
つづく。