THE INTERVIEWS
ザ・インタビュー「万年少女! 桂由美のブライダル人生」 Posted on 2018/10/26 辻 仁成 作家 パリ
私は、年齢を忘れてしまった昔の少女にパリのヴァンドーム広場にほど近いホテルで面会した。この人はシンデレラをずっと心に抱え、日本に「ブライダル」という言葉を定着させた第一人者である。そして、この永遠の少女は今現在もなお日本のブライダルシーンの第一線ばかりか、ファッションの都パリにも路面店を展開し、NYでも世界中で大活躍している。
会うたびに思うのは本当にこの人の中に少女がいるということ。その少女は可憐で嘘をつかない、そしてまじめで好奇心が強く、夢を見続けることの天才なのです。
ザ・インタビュー「万年少女! 桂由美のブライダル人生」
辻 最近、「もしもデザイナーにならなかったら?」というインタビューを受けたそうですが、なんと答えられたのですか?
桂 由美さん(以下、敬称略) 私、演劇をやっていたんです。共立女子大学にいた頃は演劇部長をしていました。ルックスには自信がないから女優になる気はさらさらなかったけど、プロデューサーという仕事、ドラマを作ることに興味があってね。文学座募集の新聞広告を見て、応募したら合格者60人の中に選ばれて、文学座付属演劇研究所第1期生として1年通いました。文学座の合格通知が出るときに、試験場の文化学園に合否発表が出るだけだと思っていたんですけど、家に帰ったらハガキも届いていて、母にばれちゃった。「これはなんですか?」と怒られました。母は洋裁学校を経営していましたので、私はその学校を継がないといけないと言われていましたし、共立女子大学も受かったばっかりだったので、休学するのかどうするのか、と散々言われて。だけど、新制大学というのは毎日行かなくてもいいのよと説明して、なんとか文学座に通うことを許してもらいました。大学に半日しかこないので「ミスハーフ」と呼ばれていました。
辻 なるほど。大学に行くことも珍しい時代に演劇までされていたのですね。でも結局ファッションの道を選ぶことになった。それはどうしてですか?
桂 なぜ私がファッションの道に入るのが嫌だったかというと、不器用だったからなんです。その頃はまだ洋裁より和裁の方が盛んで、先ず着物を縫わせるわけですよね。そうすると、まっすぐ縫えないし、先生たちには「お母様の後を継げないわよ」って言われて。先生たちの言葉って生徒にはぐっと刺さるのよね、母には優秀な学生がたくさんいるんだから、その人たちが後を継げばいいと思っていたんです。でも文学座にいる時に先生だった芥川比呂志(芥川龍之介の長男)さんから「新劇の世界に必要なのは知性だ、先ず大学を卒業して知性を磨け」と、言われたんです。とても尊敬している人にそんなことを言われたので、大人しく大学に戻りました。笑 大学に戻って、ある時、自分で縫わなくてもいいんだと気付いた。私がデザインして誰かに縫って貰えばいいと思ったの。その後、文化服装学院の夜学にも通いました、大学に通いながらね。また、ミスハーフになったんです。
辻 桂さんって本当にアクティブな女性だったんですね! その後、大学を卒業してパリに渡った。どうしてパリに?
桂 ファッションをするときに、日本には何もなかった。ウエディングドレスの現物なんてもちろんないし。本を見て勉強するしかなかったから、現物を見てみたいと思ったんです。ドレスの中の下着(パニエ)の作り方なんかも知りたかった。それで、ちょうどローマオリンピックの時にファッション界で初めての15人の団体旅行が行われたんです。まだ団体旅行が許可されなかった時代。1ドル400円近くの時代です。
辻 実際に見たパリはどうでしたか?
桂 もう、それはファッションの本場という感じですよね。当時、ピエール・カルダン氏は日本贔屓で何度か日本の学校にも講義に来てくれたことがあったんです。パリに行くと、ホテルクリヨンで当時の組合長とカルダン氏が歓迎会を開いてくれたり、パリの学校に入ってからもわりと面倒を見てくれました。その時に初めてミンクのストールを買ったんですけど、着物にそのストールをかけていたら、カルダン氏がさっとそれを前結びにしてくれてね。一緒に写真を撮りました。
辻 桂由美にとってのパリとは?
桂 ファッションをやる人間にとっては聖地みたいなもんですよね。勉強するのもパリ、最後に骨を埋めるのもパリ。
辻 桂さんは当時のパリでどのような生活をされていたのでしょうか。フランス語は大丈夫だったのですか?
桂 なんとか大丈夫でしたね。技術とデザインですから、用語が分かっていれば何とかなりました。でも、語学を勉強するためにアリアンスフランセーズに通っていて、そこの寄宿舎に入っていました。私は和食党だから日本料理「たから」というレストランに、一週間に2回は通っていた。ところが「たから」のご主人が日本に一時帰国して3ヶ月店を閉めるということになった時、モンパルナスの自炊ができるホテル、ホテル・エグロンに移って、そこに卒業まで住みました。
辻 では、なぜ、ブライダルの世界にいったのでしょう? どこでそう決めたのか、そのきっかけを教えてください。
桂 だって、シンデレラが大好きな女の子だったんです。笑 本当にブライダルで行こうと決めたのは日本に帰ってから、母の経営する洋裁学校(現、東京文化デザイン専門学校)の先生になってからです。生徒が2000人もいたので、専門学校って2年制ですが、もう1年通わせて欲しいという生徒が結構出てきたんですよね。それで、特別専修科を作ることになったんです。科目を作るときに、「ウエディングドレス」を卒業制作の課題に出しました。
辻 なるほど。ウエディングの世界の扉を開けるわけですね!
桂 私、その課題のための学生の買い物について行ってみたわけ。そしたら、他のファッションの生地\\はたくさんあるのに、いざウエディングドレスとなると、レースは悪いし生地の幅も狭くて……。ウエディングドレスは生地の幅が必要ですからね、それじゃ到底作れない。下着もワコールがブラジャーとかコルセットとか作ってるんですけど、ドレス用のインナーは全くなかった。下着はない、靴はない、手袋もない、ブーケだって花屋もどうしたらいいかわからないから自分で作ってくれと言われる始末で。それで、だいたいどれくらいの人が結婚式にウエディングドレスを着るのかと調べてみたら、なんと、3%しかいない。97%は和装だったんです。その3%というのは、外国人と結婚する人か、アーティストの人、日本にクリスチャンって2パーセントもいないですから。では、その人たちはどうしてたかというと、オーダーショップがあって、そこに行くと外国のスタイルブックがある。「これ」というと作ってくれるのですが、当時の日本人は今より12センチくらい背が低かったから……。当時、日本では165cmの子がトップモデルだと言われてたのを覚えてますけど、欧米の写真のモデルとプロポーションが全然違うから出来上がったものも全然違うんですよね。そしたら生徒が、「先生、お店を開いてああいう人を助けてあげられないですかね」って言うもんですから、私、人がやってないことにやりがいを見い出す性格なもので……、やろうと思いました。
辻 だけど、今はウエディングドレスを着て結婚式を挙げる人が圧倒的に多い時代です。桂さんはその先駆者となるわけですね。
桂 まず「ブライダル」という言葉が存在しなかった。マスコミに”第一回ブライダルコレクションを行います”という手紙を出したら、翌日電話が鳴りっぱなしで、「”ブライダル”って何ですか?」とか、「何をやるんですか? ウエディングドレスをいっぱい出すんですか、あぁ、そうですか」って。マスコミがわからなかったら一般の人はもっとわからないなと思いました。でも、ファッション関係者の間だけでも、これは良いPRになるなとは思った。今は「Yumi Katsura Bridal House」という名前をつけていますが、当時はまだ小さかったから「Yumi Katsura Bridal Salon」という名前にしました。
辻 ブライダルサロンっていう響きはとても良いですね。
桂 ところがね、1年間で30人しかお客さんがいなかった。100人注文に来ても、結局最後まで行くのは30人くらいだったんです。結婚式にドレスが着たくて自分の親は説得できたとしても、一番決定権を持っているのはお姑さんでしたから。お姑さんが嫌だと言えばそこで終わり。だから、私もだんだんすぐに手をつけないで一ヶ月くらい様子を見てから作り始めるようにしていました。だって、もう大変ですよ。社員が4人いたから、その社員たちにお給料払ったら私には一銭も残らない。だから、店の最上階に寝泊まりして家賃を浮かして。私は月水金は母親の学校で教えて、そこから給料をもらって生計を立てていました。母親からは、「洋裁学校は学校法人ですから何かあったら学校法人は国庫に没収されてしまう。両立できないときは学校を優先するのですよ」と言われ続けていました。
辻 お母様はずっとそのスタンスを変えないですね(笑)。 かなり芯の強い方です。桂さんのお母様というと戦前の生まれですよね?
桂 そうです。皆さんが着物を着ている時代に洋裁学校を開きました。母はとても勉強好きだったけれど妹や弟のために勉学をあきらめた人だったので、自分の子供たちには勉強をさせてやりたいと強く思っていたようです。だけど父の給料だけでは無理だったので、結婚してから文化服装学院に通い始めて、洋裁学校を経営するまでになったんです。
辻 すごい。お母様がなければ今の桂さんはないって思いましたね。その意思と情熱を全部受け継がれている。その頃から文化服装学院があったというのもすごいですよね。有名なデザイナーさんはみんな文化服装学院出身ですよね。※文化服装学院 1919年(大正8年)創立。
桂 もともとは婦人子供服洋裁店だった。そこに裁縫教授所ができて、その後、シンガーミシン裁縫女学院裁縫科などと組んで、文化服装学院に展開したようです。
辻 日本のファッションの歴史に革命を与えたシンガーミシンから文化服装学院ができて、そこで育った方々が日本のファッションリーダーとなっていったんですね。それは面白いな。しかし、常にパイオニア、先駆者であることは大変なことですよね。そこから、「ブライダル」という言葉はどうやって広がっていったんですか?
桂 どこの国もそうですけど、高度経済成長期に入ると一番初めに派手になるのが結婚式なんです。つまり親が自分たちの時代にできなかったことをせめて娘に……と。結婚式場は「松・竹・梅」とどんどんカテゴリーを作っていく。それまでは黒振袖が一般的だったけれど、でも振袖って誰でも着れるものだから、格上の打ち掛け姿というのにして、「お色直し」というのを入れて、結婚式で打ち掛けを着て、お色直しで振袖を着せればいいということになって。それを発表したらお嬢さんたちが「振袖は成人式にも着たから、2着着れるならウエディングドレスが着たい」と言い出したんです。
辻 いよいよウエディングドレスブームが来たのですね。
桂 1967年くらいに京都に全国初のウェディングドレスメーカーが発足しました。そのメーカーにライセンスでピエール・バルマン氏がデザインしていると聞いてびっくりして。ピエール・バルマンってウエディングドレスのデザインが大好きな人なんです。でもね、彼の衣装を借りる人が少ないんですよ。なぜかというと、彼はウエディングドレスと言われたら教会で着るものをイメージしているから、肌を見せないデザインなわけです。だけど、実際、日本ではウエディングドレスはお酒の席で着るための衣装だったので……。私はパフスリーブのフリフリのデザインにしていた。それで、そのことを彼に説明したらね、バルマン氏は「わかった。じゃあ、これでいいのね」ってデザイン画をささっと描き直したんですよ。(はぁ、、、あれ、もらっとけばよかった……)
辻 今の本音かわいかったなぁ(笑)。
桂 その後に、渋谷の料亭で食事会があって同じ車で向かったんですけど、私の店の前を通ったので車を降りて店を見ることになったんですよ。そしたらバルマン氏が、「この世の中で一番美しいものは花嫁姿だと思うんだ。しかし、オートクチュールとして仕事をしていると年に2、3回しか作る機会がない。あなたは毎日作ってるなんて……、なんて羨ましい人生!!」って言われたんです。もう、それがすごく嬉しくて。それまでは経済的にも大変でしたから迷いもありましたが、もうそれからはこの仕事を天命と考えて、一度も迷ったことはありません。
辻 1964年にお店をオープンさせて、50年以上経った今もブライダル界の最先端にいらっしゃる。桂さん、先ほど年齢の話をした時に「私は新しい気持ちでデザインしているけど、世の中が年齢を知ってしまうとその年齢の目でみられるから年齢は言わない」とおっしゃってましたけど、桂由美ブランドのイメージってそれを超越したものがある。年齢とか関係なく。桂さんは間違いなく、シンデレラを今でも持ち続けてる。どの時代に生きていても桂由美は存在してる。桂さんというのは少女のまま、年齢とかを超えているんだな、と思いました。みんなが知っている桂由美は古いも新しいもない。それが日本のブライダルを牽引する力なのかな。桂さんの少女性が素晴らしいです。今の桂由美も当時の桂由美も変わらないまま存在してる。若さの泉というか、その変わらない気持ちはどこからくるのでしょうね。
桂 私は本当に年齢を忘れているんでよ。4月24日生まれですけど、その日になっても社員は誰もおめでとうとも言わない。唯一おめでとうと言ってくれるのは銀行よね(笑)。 銀行からお花が送られてきて気づくのよ。
posted by 辻 仁成