PANORAMA STORIES
バゲットの魔法にかかる日曜日の朝 Posted on 2018/08/07 清水 玲奈 ジャーナリスト・翻訳家 ロンドン
「人口の3人に1人は外国生まれ」と言われるロンドンでは、庶民のソウルフードから星付きシェフの高級料理まで、世界の「本場の味」が居ながらにして楽しめます。
たとえば、フランス人の食生活に欠かせないバゲット。粉、塩、酵母と水が原料というシンプルさだけに、外国で本当においしいバゲットに巡り合うのは至難の業です。でも、フランス人も多く暮らすロンドンでは、英国産オーガニック小麦粉が原料の絶品バゲットが食べられるのです。
日曜日の朝、「パティスリー・サンタンヌ」でそのバゲットを買い、店内のテーブルでパリ気分の朝食を楽しむのが、私たち母子家庭にとってのささやかな贅沢です。
サンタンヌは知らなければ通り過ぎてしまいそうな間口の狭いお店で、ピンクの壁と猫の顔のトレードマークが目印。フランスならどんな街にもある庶民的な風情のパン屋さんです。店内の雰囲気や品ぞろえも現地そのまま。バゲット、パンドカンパーニュ、クロワッサンやパンオショコラ、ショソンオポム、それにミルフイユや果物のタルトなどのパティスリーが並んでいます。
カウンターの後ろでは、日本人マダムのケイコさんが、店員の若者たちとフランス語で会話しながらきびきびと立ち働いています。時折、私たちのテーブルまでやってきて娘に「おいしい?」とたずね、まるで当たり前みたいに、おまけとしては豪華すぎるマカロンやビスキュイをくださることも。
ケイコさんは2014年、フランス人のパン職人の旦那さん、パティシエの息子さんとともに、パリ13区で長年親しまれていたお店を、ロンドンに移転させました。パリで毎朝パンを買いに来ていた顧客たちみんなに泣かれたとか。一度ケイコさんに「なぜロンドンに」と聞いてみると、笑いながら「20年同じことをしていて、新しいことに挑戦したくなったから」とだけ説明してくれました。
サンタンヌの日曜日の開店時間は朝8時。焼き立てバゲットを買うと、私は半分にちぎって娘と分け合います。常連さんにはフランス人やフランス帰りらしい人が多く、バゲットを夢中でかじる娘を見て微笑む人に「ボンジュール」とあいさつすると、「お嬢さんは趣味がいいですね」などとエスプリを利かせて返してくれます。
物も言わずにバゲットを食べる娘を見守りつつ、私はぼんやりと考え事をする貴重なひとときを過ごします。お客さんや店員さんたちの話すフランス語の響きを聞きながら思い出すのは、やはりパリにいた頃のことです。
私がパリで暮らし始めた頃行きつけだった7区のパン屋さん「プジョラン」は、やはりピンクの壁で、でも猫ではなく犬の絵が描かれていました。かりっと焦げたバゲットが絶品で、他のお客をまねて「よく焼けたのをください」と注文を付けて買い、お店を出た途端にちぎって食べたものです。
パリでは住民への配慮なのか、近隣のパン屋さんどうしは時期をずらしてバカンスを取ります。夏でも仕事に精を出すのが常だった私は、外国人観光客が目立つパリでいつもと違うパン屋さんに行くと、「この時期も働いているのは私とパン屋さんだけ」という気分になりました。
サンタンヌでエスプレッソを飲み、香ばしさと塩味とやさしい甘さを残して口の中に溶けていくバゲットをかみしめていると、いろいろあったパリ時代がほろ苦くも甘美な記憶としてよみがえり、「あの頃があるから今がある」と思えてきます。
娘は1時間くらいかけてバゲットをひとしきり食べると「あとはこうえんでたべる」と宣言し、私たちは残り少ないバゲットをエッフェル塔のついた紙袋に大事にしまって、公園に向かいます。
石井好子さんは『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』でバゲットを棒パンと書いています。バゲットの素朴さが表れていて、味わい深くしかも的を射た訳語です。フランス語の「バゲット」は「棒」という意味で、フランス人は難題に直面すると「簡単な解決策はない」という意味で「魔法のバゲット(魔法の杖)は存在しない」と言います。でも私はサンタンヌで焼き立てバゲットを食べるたびに、「魔法のバゲットは存在する」とつぶやきたくなります。
涼しいイギリスでは夏に休業する店をほとんど見かけませんが、サンタンヌはその辺もフランス式で、8月には2週間のバカンスに突入します。またおいしいバゲットが食べられると思えば、夏の終わりも楽しみです。
Posted by 清水 玲奈
清水 玲奈
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ジャーナリスト・翻訳家。東京大学大学院総合文化研究科修了(表象文化論)。著書に『世界の美しい本屋さん』など。ウェブサイトDOTPLACEで「英国書店探訪」を連載中。ブログ「清水玲奈の英語絵本深読み術」。