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なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか Posted on 2021/09/08 町田 陽子 シャンブルドット経営 南仏・プロヴァンス

なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

旅先で待っていてくれるもの。そのひとつにホテルがある。
ホテルは疲れた身体を休めるためだけではなく、そこには過去から受け継がれてきた長い歴史があり、建物の中に一歩踏み込めば、その当時に作られた歴史のファサードたちが語り始める。だから私は、耳を澄ませ、歴史の声に耳を傾けるのだ。

私にも愛してやまないホテルがある。アヴィニョンにあるお城のようなホテル、LA MIRANDE。
豪華で上品で、しかも可愛くて、そこかしこに残るクラシカルな雰囲気に一瞬にして誰もが恋に落ちるだろう。

LA MIRANDEと刻まれた石造りの重厚な建物。ガラスのドアを開けると、観光客であふれた町の喧騒はそこにはない。パティオに足を踏み入れると、天窓から南仏の陽光が降り注ぎ、その下では宿泊客だろうか、数人がテーブル席でティータイムを楽しんでいる。隣の薄暗いバーに視線を移すと、バーテンダー以外、人影はなくひっそり静まり返っている。と思いきや、奥のサロンの隅に一人の男……。

書類らしきものに目を落とす佇まいがこの空間になじみすぎているこの男こそ、マルタン・シュタイン氏、この館の主である。一見、居眠りしているように見えなくもないが、その眼光は、館の中の一挙一動を見守るように鋭く光っている。
 



なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

ここは、アヴィニョン。14世紀にローマ教皇庁が一時期場所を移した町。9人の教皇がこの地で即位した地である。ユネスコ世界遺産にも指定され、一年中、観光客が教皇宮殿やアヴィニョン橋で列を作っている。

巨大な教皇宮殿の影に隠れるように立っているのが、私がいつか住んでみたいと思ってやまないホテル、ラ・ミランドである。ファサードは1688年当時のままという、歴史ある建物だ。枢機卿の家として14世紀に建てられたのが始まりで、その後、織物師の邸宅となり、火事で焼け、再建され、ナポレオン3世と縁続きの家族の屋敷となった。

この館を購入し、ホテルとして再生したのが、シュタイン氏の家族である。現ディレクターであるマルタン・シュタインさんの両親が、1987年に購入。当初28歳だったマルタンさんは、その後、ラ・ミランドの中で半生を過ごしたと言っても過言ではない。イラクで生まれ、ドイツで育ち、イタリアで医学を学んだ。医者であるが、結局、一度も人の病気を治したことはない。言ってみれば、古い家を直すドクターだよ、と哲学者のように静かに笑う。
 

なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

17世紀の典型的なフランス天井のサロン・バー、シノワズリーの大流行を実感する朝食の部屋、16世紀のタピスリーが美しいレストラン……。このホテルの中にいると、連綿と続く時の中に、いま、自分は存在するのだという感覚がじわじわ湧いてくる。
ここは «昔風に作られたホテル»でもなければ、 « 古い調度品が展示されたホテル »でもない。徹底的にその時代の館が再現された邸宅である。
じつは建物の9割がリノベーションされているのだが、その方法は、もはや美術品の修復。18世紀の部屋ならば18世紀の釘やネジなどの部品を同じアヴィニョンの町で探し、ローラーなどの機械も同時代のものを使っている。床は防音の材を入れるために一度解体し、ナンバリングをして同じ順番で貼り直したという。そして、それらがきちんと磨かれ、愛情をもって、日々大切に使われている様子が隅々から伝わってくる。
 



なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

数百年前の空間をこだわり抜いて作り上げた彼の情熱に拍手を送りたいし、そこまでのめり込んで一つのことをなし得た人生をうらやましくも思う。資金がなければできないことだけれど、コストを考えていたら到底できないことでもある。そういうクレイジーな人を心から尊敬するし、効率の悪い人生にこそ、真の歓びがあると改めて思う。

時を経た古くて美しいものが好きな私にとって、この宿ほど愉しい空間はない。全室違うインテリアだから、行くたびに異なる空間に滞在できる。客室の椅子もランプもドアもドアノブも電気のスイッチでさえ、18世紀当時のもの。
「開業当時、ある日本人のお客様がカーテンで靴を拭いて台無しにしてしまったよ。とても高価な絹のダブルのカーテンにね……」。冷や汗をかきながら、同じ日本人としてごめんなさいと謝ったが、シュタインさんは笑っている。
 

なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

ホテルは泊まるだけの場所ではない。友人と待ち合わせをしてお茶を飲んだり、アペリティフとともに静寂の中に身を沈めたり、恋人と非日常の夕食を楽しんだり。いいホテルほど、活用範囲が広い。

とくにヨーロッパの一級のホテルでは、見本としたくなるような大人が多く、若い頃から世界中のホテルに仕事という名目で宿泊する機会が多かった私は、そんな人たちの立ち居振る舞いを見るのが好きだった。そこで、大人とはどういうものであるべきかを学んだのかもしれない。いいものを見るには、背伸びも必要。高すぎて泊まれないホテルには、お茶の時間に中を覗き見ればいい。星が多く、高級であればいいというものでもないのがおもしろい。魂が宿っていて、まるで生きもののようなものだと思う。
 

なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

庭に出れば、長年ここで働いているという専属の庭師が、一つ一つの植物について熱心に教えてくれる。地下に降りれば、秘密(?)の18世紀の厨房がワインカーブの隣にあり、週に2度だけ、料理するシェフを間近に見ながら、大きなテーブルを囲んで夕食を食べられる。修理の部屋も地下にあり、常時2人が従事している。

5つ星で、部屋数もわずか26室しかないこともあり、残念ながら頻繁に泊まることは叶わないが、泊まるときには外に出るのがもったいなくて、ずっと館の中で過ごしている。たいていのクラシックホテルは時が止まっているが、ここはきちんと動いている。そこがいい。南仏に好きなホテルはいくつもあるが、ここは特別。
 

なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

いつか、ユーロミリオン(欧州の宝くじ)が当たったら(いったいいつになったら当たるのだろう?)、持っているものをすべて処分して、このホテルの一室で暮らしたい。一人の男が生涯をかけて作り上げた作品の中で、何百年の時間を有するこの空間の中で、現代のスピードから逃れて静かに豊かに余生を送ることができたら、どんなに素敵だろう。

テラスからは月の光。仄かに明るい部屋で、そんな夢を妄想しながら、眠りに落ちた。
 

なぜ私はいつもこのホテルに逃避するのか

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Posted by 町田 陽子

町田 陽子

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Yoko MACHIDA
シャンブルドット(フランス版B&B)ヴィラ・モンローズ Villa Montrose を営みながら執筆を行う。ショップサイトvillamontrose.shopではフランスの古き良きもの、安心・安全な環境にやさしいものを提案・販売している。阪急百貨店の「フランスフェア」のコーディネイトをパートナーのダヴィッドと担当。著書に『ゆでたまごを作れなくても幸せなフランス人』『南フランスの休日プロヴァンスへ』