THE INTERVIEWS
坂 茂「まず行動する建築家」前編 Posted on 2016/11/13 辻 仁成 作家 パリ
世界的に高名な日本人建築家は数多くいるけれど、この人ほど建築家の使命感について考えている人は少ない。
その姿勢は取材したこちらが驚くほどに強い意志と博愛精神によって貫かれている。
世界各地で震災が起こればすぐさま駆け付け、もちろん自費で、しかも熊本震災の時などは大分市内で借りた大型トラックを自ら運転、学生たちを引き連れ、誰よりも早くたくましく現地に急行した。
建築界のノーベル賞とも言われるフリツカー賞を受賞しているとは思えない行動力である。
偉くなっていけば先生や大家になって終わる人が多いのに、この男は最前線で指揮をとり、建築家に今出来ることを模索し続ける。まさに行動の建築家である。
この人に私は興味を持ち、彼の活動を追い掛け、熊本の被災地へと飛んだ。
益城、御船という特に犠牲者が多く出たところに行った。御船町では藤木正幸町長に話も聞くことが出来た。
坂 茂(ばん しげる)のやったこと、坂 茂から受けた影響、これからのことなどを町長は熱弁してくれた。
知れば知るほど、聞けば聞くほど、この男は尋常ではない。
彼の活動を支えた地元の若い建築家や学生たちにもインタビューをした。
誰もが口を揃え、坂 茂の功績を称える。仕事が終わると学生たちを集め、車座になりワインをたしなむ。学生たちにワインの正しい飲み方なんかも笑いながら指導している。外側から訊く限り、豪快な人物を想像してしまう。
いったいこの男はどんな建築家なのであろう。私の関心は高まった。
彼が拠点としているパリのポンピドーセンター付近のカフェでインタビューをすることとなった。
辻 この世界に、本当に有益で、人のためになるデザインというものがどれほどあるのか? この世界のデザインというものは、いいものもあるけど、悪いものの方が多いのではないか? 本居宣長じゃないけど、「神の意匠」というものがあるのか? 今回坂さんの仕事が非常に、それを見極めるのにいい例として存在しているのじゃないか、と思ったのです。だから、まず熊本の被災地に自分もいかなきゃと思い、出掛けてみました。
坂 茂さん(以下、敬称略) 行きました? 避難所も回ったんですか? 初めてですか、ああいう被災地を回るのは。
辻 神戸や福島の被災地を取材した経験があります。でも、震災直後の崩壊している家を回ったのは初めてです。粉塵煙る空気を吸ったせいか、次の日高熱が出て、点滴を受けることになります。あらゆるものが途方に暮れている状態でした。
坂 益子ですか?
辻 もちろん、益子も。御船では町長さんまで出てきてくれて。3時間ほど、現状の目処が立たない問題や、坂さんの活動についていろいろ話を伺うことが出来ました。坂さんの力を借りて復旧につとめたいという強い意志をもっておられましたが・・・。
©Voluntary Architects’ Network
坂 そうなんですけどね。この被災地に業者さんの協会、プレハブ協会とか、優良住宅協会とか、そういう組合が4つあってですね。全国的なプレ協っていうところと地元の3つの協会、1つが住宅メーカーだったり、大工さんのグループだったりするんですけど、その利権というか、既得権益みたいなものと、それだけではなく、建築家のエゴなんかもあって、熊本アートポリスっていう県のプロジェクトがあるんですけど、コミッショナーが熊本県の集会場を全部自分と自分の知り合いらで設計するって決めちゃったもんだから、御船町の町長さんが僕に作って欲しくても実は出来ないのです。
でも、その利権に食い込んで、本当は出来ないようなスキームなんですけど、御船町の仮設住宅を10軒だけ建てることが出来ました。この週末もまた行きます。昨日も一昨日も行ったんですけど、毎週行ってるんです。(※坂さんは熊本や世界中の被災地と事務所のあるパリとを通勤するように移動している)工事は1ヶ月で終わっちゃいました。来週が検査で、31日が入居なんですよ。
辻 何世帯、何人ぐらいですか? 40人?
坂 10世帯、30から40人ぐらいです。やっと、ありえないようないろんなコネをうまく使って、県の局長もいい人で、御船町の町長さんも県に対してどうしても僕らと作りたいって言ってくれたので。何とかやっと食い込めました。集会場も熊本市って県に対して対抗意識があるから、市の分は僕が出来ることになって。大きなプレ協が建設したプレハブの仮設住宅団地の中に住民たちの集会場を作ることが出来ました。
辻 集会場。それは坂さんが確立された新しい建築法とでもいうのか、やはりいつものように紙で、あの紙管を利用して作られたんですか?
坂 いや、今ベニヤのフレームで作る住宅のシステムを開発して、御船町の仮設住宅もそのシステムでやっていて。安くて1ヶ月で出来るし、特殊技能も大工さんもいらない。ボランティアでも出来ます。
辻 日曜大工レベルで出来るってこと? そのような急ごしらえの建築物に長く居住可能なのですか?
坂 出来ます! 最初は学生で作ってたんです。しかし、学生だけだとやはりスピード感がない、学校の休み時間中にやらなきゃいけないんで。1ヶ月中に作れっていう県の大きな目標がありますからそれに合わせないとならない。もちろん、長く住めますよ。多分、みんなずっと居たいと言うと思いますけど。女川町の仮設住宅も地震がきてから5年経ってるけど、みんなお金を払っても住み続けたいって言ってもらえています。建築的には問題ないけど、もともと野球場だったから、いつか野球場に戻さなければならないけれど。
神戸に作った教会は10年使ったのち、今は台湾の地震の被災地埔里に移管寄付して、教会兼コミュニィティーセンターに生まれ変わっています。最初は2、3年使えばいいって神父さんがおっしゃってくれたんですが、みんながその建物をすごく愛してくれて、結局10年使われました。神戸は10年経ったんで、もう少しちゃんとしたもので大きなものにということで、そこの設計もやらせてもらいました。
辻 それは傷んだり、壊れたりしないのですか? 紙ですよね?
坂 ないですよ、まったく。木だって鉄だって何だって傷むじゃないですか。防水はしてますよ。紙っていうのは工業製品ですから、防水とか不燃化は簡単に出来ます。壁紙だって不燃の紙だし、牛乳パックだって防水紙で出来てる。紙は工業製品ですからどんな加工だって出来ますよ。建物は強度の問題ではなくて、たとえば赤坂見附にあった丹下健三のホテル、プリンスホテルあったじゃないですか。あれもうないですよね? いや、ですからね、コンクリートで作ったもの、金儲けのための建築こそ、仮設なんですよ、結局は。別なデベロッパーが土地を買って、別なものを作る。コンクリートで作っても金儲けのために作ったものはいずれなくなる。たかが紙で作ってもみんなに愛されれば、パーマネントな建築物になる。それが実証されたんですよ。
辻 紙管を利用する建築発想はどこからきましたか? 最初は確かルワンダでしたか?
坂 ルワンダの民族紛争はツチ族とフツ族が殺し合いをやって200万人以上の難民が出たんですね。100万人ぐらいが虐殺されて。その難民キャンプの状況があまりにも酷かった。みんな毛布にくるまって震えてる写真を見たんです。94年。37歳の時です。
つまりシェルターが十分じゃないから、冬とか、雨季になると寒くて凍えちゃって。いくら医療活動してもしょうがないんで、シェルターを改善しようと、ジュネーブの国連難民高等弁務官事務局に訴えに行ったんです。手紙とか書いても返事が来ないんで、仕方なくアポなしでジュネーブまで出掛けて行ったのです。まあ、思い立ったらすぐ行動する。
もともとね、日本で仕事を始めて10年ぐらいして、建物を作るだけで精一杯だった状況から、だんだん、少し周りが見えるようになってきて、建築家って社会の役にたってないんじゃないか? って思い始めた。昔は、医者や弁護士って絶対なりたくないなって思ってたのに・・・。なぜかって言うと、常に人助けをしているわけなんですけど、いろんな衝撃的なことを人に伝えなければいけない。大変じゃないですか? でも建築家ってね、本当に楽な商売で、だいたい家を建てられるという時は、生涯で一番いい時なんですよ。そういうハッピーな人といつもお付き合いをしている。それに比べて、医者や弁護士は、人が一番大変な時につかなければいけない。だから建築家はいい仕事だなって。歴史的に見ても、建築家ってのは特権階級のための仕事なんですよ。宗教建築だってそうだし、立派な貴族の家を作るんでも、財力と権力って目に見えないじゃないですか、それを社会に見せるために建築家を雇い立派なお城や教会を作る、それがもともとの建築の仕事なんです。現代になって特権階級の仕組みが変わっても、結局同じです。特権階級のために、目に見えない財力や権力を形にしている。われわれも自分がやりたいデザインを他人の金を使ってやってるわけ。でもね、だんだんそれに対して疑問を感じ始めて、ある日「なんだ、僕ら全然社会のために役に立ってないな」って思うようになったのです。何か社会のために、建築を使って何か出来ないかなって考え始めることになるわけです。そんな時に、たまたまルワンダの悲惨な難民キャンプの写真を週刊誌で見て、それで国連難民高等弁務官事務所駐日事務所まで行ったりしたんですけど。何にもしてくれないから本部の住所を聞いて、手紙を書いたけど返事もまったくなくて。しょうがないから自分でアポなしでジュネーブまで行ったんです。
辻 アポなしで? ジュネーブまで?
坂 電話したら運がいいことに、たまたま電話に出てくれたのが、日本人のJPO(Junior Professional Officer)というポジションの人で。シェルター担当のドイツ人の建築家に僕のアポを入れてくれたんですよ。たまたま彼はジュネーブの国連に居て、昼休みかなんかで、もう誰もいないのに、たまたま彼だけ残っていた。
辻 たまたま? 突然ジュネーブまで押し掛け、たまたま彼一人が本部に残っていて会えたというのですね?
坂 そのドイツ人建築家のところには世界中からいろんなアントのセールスマンが来るらしく、僕も最初はセールスマンだと思れたらしくてね・・・。再生紙の紙でこういうシェルターを作ろうっていう話をしたら、彼はすぐ興味を示して。なぜかっていうと、彼らがその時抱えていた問題は、たとえばルワンダでも国連は4メートルのプラスチックのシートを与えるだけで、難民は自分で木を切ってフレームを作って国連からもらったプラスチックシートを掛ける。それが皆さんが写真などでよくご覧になる、典型的な難民シェルターなんです。
ところが200万人もの難民が出て、みんなが木を切ったもんだから、大変な森林伐採になって環境問題に発展したわけです。国連がいくら難民のためにシェルターを作るって言っても、環境問題を引き起こすわけにいかないんで、一度アルミのパイプを支給したんです。ところがアルミってのは、ああいう地域では非常に高価な材料なので、難民の人たちはみんなお金のために売ってしまって、また木を切り始めて・・・。アルミのパイプを支給すること自体が、代替材料という解決策にならないことになり、彼らは困ってしまったわけなんです。それで僕の紙管建築法の提案を見て、ただのセールスマンじゃないっていうことがわかって、興味があるから開発しようと、コンサルタントとして雇ってくれたわけです。
辻 お金もらえたんですか? へんな言い方ですけど、それは生活が出来るぐらいの謝礼でしょうか?
坂 いえ、たいした額ではありません。そして次の年95年に神戸の大震災が起こりました。何かしたいと思ったけど、あんな大惨事でどこに行って何をしたらいいかわからない状態で。たまたま新聞で、元ベトナム難民たち、いわゆるボートピープルって人たちを日本政府が初めて受け入れて、言葉を教えたり、職業訓練を与えたりするトレーニングセンターが神戸にあって、その神戸に住み着いた元難民たちが、みんなクリスチャンなんで鷹取教会に集まっているという記事を読んだんです。日本人の被災者も大変だけど、元難民の人たちはもっと大変な生活をしてるに違いないと思った。まず鷹取教会にいきました。街が全部燃えてまだ煙が上がっててね、教会も燃えて、その隙間で焚き火を囲んで、外でミサをしていたんですよ。ベトナムの人もいれば、韓国の人もいる、いろんな国の人たちが集まってた。それを見て、なんとかこの教会で活動したいって思い、神父さんに「紙で教会を再建しましょう」って言ったら、もうまったく相手にされなくて。火事のあとに何を言うんだみたいな。それだけじゃなく、彼が言ったことで忘れられないのはね、「教会がなくなって本当の教会になった気がする」って言葉なんですよ。それは何かっていうと、教会って本来は立派な聖堂があるところなのだけれども、それが全部なくなったら日本中から人が集まって、近隣の住民のためにみながボランティア活動を始めたと。
辻 なるほど、素晴らしい話です。
坂 苦しいのに、みんな誰か隣人のために活動して、それでこそ本当の”教会”だと。「教会がなくなって本当に教会になった気がする」っていうのは、そういう意味なんです。紙で作るってことも信用できないんだけど、それだけじゃなくて周りがこんな焼け野原の段階で教会だけ再建するつもりはない、と。それでも諦めずに毎週日曜日、10時からのミサに間に合うように新幹線で、しかも始発で通ったんですよ。
辻 本当にすごい行動力ですね。で、何回ぐらい行ったんですか?
坂 毎週通ってましたよ、本当に。だんだんベトナムの難民の人たちと親しくなって、彼らの家に呼ばれたら、公園でテント生活をしてたんですよ。仮設住宅が徐々に出来始めていたにも関わらず、彼らは自分たちで公園にブルーシートでテントを張って生活していた。国の作る仮設住宅には外国人である彼らは移れない。なぜかっていうと、神戸に土地がないから仮設住宅はみんな郊外に出来るわけですよ。でも彼らは長田区のケミカルシューズ工場でしか雇ってもらえない。郊外からは通えないんです。だから公園のテント生活を続けたいと言われたんですね。だけど公園がだんだんスラム化するんじゃないかってことで、近隣の日本人住民は彼らを追い出しにかかった。それで、近隣の人たちが認めてくれるような、いかにも仮設で、きれいに計画的にやってスラム化しないようなものを建て直せば、そのまま住み続けられるんじゃないかって思って作ったのが「紙のログハウス」ですね。紙管を使った仮設住宅。基礎はビールケースでなんですけど。それを難民の人たちに作ってあげました。
辻 何戸ぐらい作ったんですか?
坂 50軒。そのお金は教会に集まった寄付で作らせてもらったんですね。神父さんが、彼らを支援するためのお金を持っていたんで、一軒だけ自費で作って見せたら、「これはいいね」ってことになり、じゃあ、支援する、という話になりました。
辻 政府じゃなく、教会が支援したんだ。で、そこから話は最終的に教会にまで及ぶのですね?
坂 非常に出来がいいんでね。神父さんが「だったら、自分でお金集めと人集めをするのなら、教会作ってもいい」って言ってくれたんですよ。だんだん信用されるようになってきて、10メートル×15メートルの土地をもらって、難民用のシェルター「紙のログハウス」を作ると同時に、教会の設計と施工を学生たちと始めたんです。
行動
辻 すごい話です。鳥肌が立ちました。ちょっと話、脱線しますけどね。熊本の震災の時も「震災だ、行かなきゃ」っていう使命感がもちろんおありになったのでしょうね。突然、大分から入ったって聞いたんですけど、レンタカーをまず自分で借りるんですか? 学生たちに「お前ら、来るか」って聞くんですか?「はい、行きます」って志願する学生を連れてくんですね? その飛行機代は誰が負担するんですか? レンタカー代は自分で出すんですか? みんな連れて取りあえず大分に、その、アポイントメントはあるんでしょうか? 話し聞いてると、そういう活動をずっと延々続けてこられている、型破りなんですね。
坂 まず自分で被災地へ行って、どういうものが必要かって見極めないと。みんな状況違うから、同じもの、スタンダードってのはありえないんですよ。だから自分で現場に行って、自分で人集めして、現地のネットワークも最大限作って、やっていかないと始まらない。神戸のときもそうだったんですが、他の建築家たちはグループを作って話し合うんですけど、船頭が多くて何にもまとまらないし何にも始まらない。そういうの嫌いなんで、まず自分で出来ることから始めていって、もちろんお金集めもするし、ネットワークも広げるわけです。
今回熊本地震のあと、どうして大分から入ったかっていうと、地震があった時にパリにいたんですよ。一日帰国を早めて、すぐに大分に行ったんです。なぜかと言うと、東北の地震のあと、平常の時にやってた活動が、避難所用間仕切のデモンストレーションを各市町村の防災の日にやって廻ることでした。被災者にはプライバシーを守る間仕切りが必要なのに役所がやらせてくれないんですよ。前例がないからって。
辻 危ないからって?
坂 いや危いからじゃなくて。とにかく良いと思っても前例のないことは役所はやらないんですよ。せいぜい一軒、二軒、更衣室として置いてってくれということで。次々に東北中の避難所を回って岩手に入りました。岩手県の大槌町は市役所が流されて、市長さんもほとんどの役人さんも亡くなってしまったんですよ。そのせいで普通は役人が避難所を運営しているのに、大槌市高校体育館の避難所は、物理の先生が運営してる。つまり役人と違って彼は、「これいいね」ってすぐに認めてくれたんですよ。それで一気に50世帯分ぐらい作ることができました。やっと報道されるぐらいの事例になって。それでも断られるんですけど、一軒一軒避難所を回って。それで3ヶ月で2000ユニット作ったんですよ。最初は100%断られるんですけど、また次って。こんないいもの、みんなが必要なものなのに、やらせてくれないんですよ。お金だって我々がただでやってるのに・・・。それが一番大変でした。
辻 最近、国からやっと少しもらえるようになったと聞きましたが。ずっと無料奉仕だったわけですね?
坂 それにも関わらず役人はね、そんなもん作って、「奥で酒でも飲まれたら困る」っ言うわけです。自分たち、家帰って酒飲んでるくせに、そういうこと平気で言うんですよ。間仕切りが作られていくと「管理しにくい」って。だけど役所の言うことを聞かないとやらせてもらえないから、開け閉め出来るようにしたりとか、改良を加えて、やっと最終バージョンに辿り着くわけです。とにかく理屈抜きにみんなすごくそういうものを必要としています。東北の次にどこかで地震があったときに、そんな無駄なことで時間を費やさないために、平常時の防災の日にいろんな県市町村に行って、デモンストレーションさせてもらって、役人の人たちに見てもらって。その活動が功を奏して、京都造形大で教えていたので、京都各区を回っていたら、京都市市長の目にとまって、去年の1月に京都市と我々のNPO法人が防災提携を結んだんですよ。
京都市が災害にあったらまずうちに連絡があって、役所のお金で間仕切りを作るっていう協定がやっと成立したわけです。
辻 すごい、あなたは本当にすごい。
坂 京都からはじめて、全国でやったんですけど、大分はたまたま、美術館を作ったおかげで、デモンストレーションをやらせてもらっていたわけです。震災の前、今年の1月に防災協定が結ばれていたんで、地震がきて2日後の日曜日に知事に会いに行きました。
辻 じゃあもう、そういう繋がりがあったから、まず大分に入ったっていうこと。
坂 そう。でもまずは熊本ですからね、地震は。その時、大分はまだ無くて、震災の2日後ですもの。震災の2日目に知事公舎に訪ねていって、せっかく大分と防災協定を結んだから、大分県の支援として熊本に作りましょうって。それで広瀬知事がぜひやりましょうってことになりました。
翌日に、県の人と僕が熊本県の南阿蘇村に一緒に行って、そこでも知事から知事へちゃんと話が出来ていたから、今回はすごく支給が早かった。その上、それが内閣府の人たちの目にとまって途中から材料代を出していただくことが出来たのです。
posted by 辻 仁成