PANORAMA STORIES
Books for Cooks Posted on 2016/11/05 辻 仁成 作家 パリ
映画「ノッティングヒルの恋人」の舞台になったノッティングヒルに映画の舞台となった本屋さんが実在する。
でも、今日の主役はそこではない。道を挟んで真正面にあるもう一つの本屋さん、Books for Cooks。
可愛らしい佇まいの入り口を入ると、左右の書棚は料理関係の本やレシピ本でびっしり。入り口にレジがあり、可愛らしい女性が笑顔で、ハロー、と挨拶をしてくださった。
列が二つ。レジに本をもって並ぶ列と、もう一つの列は奥の方へと続いている。あれ、なんだ?
そう、本屋の奥に小さなレストランがある。
それだけならば珍しくないけれど、このレストランは日替わりで毎日料理が一品出る。一食、4ポンド。物価の高いイギリスなので、耳を疑った。600円ほど?
しかも、そこで売っているレシピ本の中から選んで毎日一品再現しているのだとか。面白い! へえ、と思わずうなってしまった。
料理人はみんな女性で、プロフェッショナルというよりも、実習生のような感じだろうか。
和気あいあい、ビジネスというより作ることの楽しみをそこに求めて集まってきた人たちによる、どっちかというと趣味の店という感じである。
ちなみに本日のランチは「ほうれん草、トマト、マカロニ、チーズ」というあまりにシンプルな料理名であった。
シンプルだけど、美味しい。
最初、ボンとテーブルに置かれた時は、ええ? わざわざノッティングヒルまで来てこれ? と抵抗を覚えたけれど、口に入れたらふつうに美味しかった。
おお、止まらない。全部食べるつもりもなかったのにあっさり完食。隣で息子も、
「こういうシンプルなのがいいんだよね、パパは凝りすぎだよ」と偉そうなことを言いやがった。
常連客ばっかり。おじいちゃんやおばあちゃんが多い。
とにかく愛のある、もう一つの映画がここにあるような、つい微笑みがこぼれてしまう地元のレストランだ。
ぼくも息子も幸せな気分になることが出来た。しかも、デザートもある。どうやらケーキが有名みたいで、年配の方々はランチではなく、ケーキと紅茶を頼んでいた。
大きい。ほら、まさにイギリスのケーキだ。
ぼくたちは誰とも話さなかった。
なんでだろう? いつもだったら絶対誰かと話をして、パリから来たんだよって自慢するくせに。なんとなく黙ってみんなの会話を聞いていたかったのかもしれない。
みんな絵になっていたな。ささやかな物語がそこには溢れていた。
「パパ、おなかも心もいっぱいになったね」と息子くん。ぼくは息子の頭を擦って、
「美味しいと何もかもがいっぱいになるんだよね」と言って笑った。
ノッティングヒルに行く機会があれば、ちょっと覗いてみてもいい一軒ですよ。笑。
Photography by Hitonari Tsuji
Posted by 辻 仁成
辻 仁成
▷記事一覧Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。