JINSEI STORIES
父ちゃんの旅想い出日記「ロンドンの幻想とデカダンスな夜」 Posted on 2022/04/12 辻 仁成 作家 パリ
ロンドンは夜が圧倒的に面白い。
地元パリで飲み歩くことをほとんどしないのは、そこが生活地だからということもあるし、
英国風バーの少ないパリでは楽しく飲める場所が限られているからであろう。
パリはどちらかというと隠れてひっそり飲むのに適している街で、ロケット通りなんかは別だけど、基本子供は夜遊びをしないし、あとは近所のカフェ飲みが主流だ。
それに比べロンドンは開放的で、とくにハロウィンの時期だからか、危ないくらいに路地はどこもかしこも人、人、人、で賑わっている。
私は友人のデザイナー、新立明夫氏とパブを梯子することになった。ロンドンの夜は、幻想的で退廃的で、シュールな舞台美術のような世界観が好き。※この旅日記は、コロナ禍より前の旅の想い出になる。
ロンドンに来るたび、新立氏に連れていかれるのはケンジントン周辺のパブ。
日本人は一人もいない。シガーの香りに包まれ、地元の名士たちが集まり気取らずわいわいやっているような大人の空間。たとえばウインザーキャッスルだとか、スカースデールなんだけど、今回はあえて老若男女入り乱れるピカデリーサーカス界隈を闊歩することにした。
息子は「どうぞどうぞ、ぼくは部屋でおとなしく待っているよ。たまにはパパも羽目はずさなきゃね」と調子のよいことを言った。
パパに怒られることなくゲーム三昧が出来る絶好のチャンスなのである。
ま、持ちつ持たれつ。親子も時にお互い大目に見るに限る。
数軒梯子をして、リバティデパートメントストア裏にあるニコルソンズに辿り着いた。
1873年からやってる老舗パブだ。
店員たちも全員、ハロウィンメイクで接客中。ずかずかカウンターに行き注文をする。明朗会計が心地よい。
とにかくイギリスのパブは陽気でなきゃならない。あらゆることを陽気にさせてくれるというべきか。
隣の席の客と議論をし、給仕のお兄ちゃんやお姉さんと世間話なんかをする。
「あなたは手品師でしょ?」と若い子に訊かれたので、「ある意味そうだよ」と答えておいた。
「やっぱり、どんなマジックをするの?」
その日は赤いジャケットにブーツ、黒いハットをかぶっていたからだろうか。
「あらゆる人生を豊かに変える、天才マジシャンなんだよね」
パブでものおじはいけない。
英語が苦手だったり、ちょっと老けてるくらい、なんてことはない。
人生を洗濯するのに気後れはいけない。何よりも酒がまずくなる。
どの人生も完璧なものはない。みんな孤独や苦悩を隠して笑顔をこしらえている。
そういう小さな問題をつついてもいけない。
無粋さえしなければ誰でもが楽しむことが出来るのがロンドンパブ。
みんな笑顔なのは、その裏側に隠した現実の悲しみをあえて表に出さないためだ。
アルコールはそういう人生を慰めてくれる妙薬。
そこに話を上手に訊いてくれる友人が一人いればなおよし。
私は後悔を引きづって生きていたくはない。
大海に馬鹿野郎と叫ぶほど青臭くもない。
だから、生活地パリではなく、旅先のロンドンで飲むのである。
目の前の席の若いカップル。
私がカメラを向けると彼らは見せつけるように堂々キスをしはじめた。
ホテルで息子が待っている。帰る口実がそこにある。
「じゃあ、俺も帰るよ」と新立氏は言った。
帰り道、大勢の人たちとすれ違った。不思議だな、と思う。
誰一人知り合いではないというのに、みんなと同じ時間を共有している。百年前でもなければ百年後でもない。
今、この瞬間のロンドンに私はいる。
思えば酒なんかで酔っ払うこともなくなった。
若い頃はそれが出来なかった。
酒にも人生にももはや溺れることがない。人生のじゃじゃ馬を乗りこなしたということだろうか?
ホテルの前で友人と握手をして別れた。
ホテルのドアマンが、いい夜ですね、お帰りなさい、と言った。
今夜も人生を手懐けてきたよ、と私は笑顔で返すのであった。
Photography by Hitonari Tsuji
今日も読んでくださり、ありがとう。