PANORAMA STORIES
大きな栗の木の下で Posted on 2017/11/28 荒川 はるか イタリア語通訳・日本語教師 イタリア・ボローニャ
栗の木の間から望む教会のある風景は、見飽きることのない心の景色。何度写真に収めたことか。樹齢何百年もの栗林に初めて足を運んだ時から、私はこの場所に心惹かれた。
それから10年ここで夏を過ごしているが、その想いは増すばかり。
大きな幹、幹を覆うコケ、根株から生えたひこばえ、落ち葉さえもが心を落ち着かせてくれる。
季節とともに変化する栗の木は、夏には大きな葉で心地よい日陰を作ってくれる。灼熱の太陽の元で、この日陰のありがたさは言葉では語り尽くせないほど。子供も大人も、友達もその友達もこぞって木陰に集まる。
休暇に会いに来てくれた母は、観光そっちのけで栗の木の下で読書に耽るし、この夏は写真家の夫の撮影現場にも早変わりした。人見知りなうちの猫は、客のいない静かな時間に散策に出かける。
私たちが木陰を楽しんでいる間、大きく枝を広げた栗の木は、日差しを浴びてせっせと毬を膨らませてゆく。秋の楽しみを準備してくれているのだ。深刻な水不足だったこの夏、土はカラカラに乾き、木々も辛そうに思えた。でも土地の人が教えてくれた。
「栗は大丈夫。何メートルも奥深く根を張っているから。土は乾燥しているように見えても、地下にちゃんと水分があるんだよ。」
この土地の人にとって栗は生活の一部、彼らから学ぶことは尽きない。
この辺りの栗の木はマティルデ・ディ・カノッサ女伯が植えさせたものなんだよ、と聞いて私が想像したのは栗林で散策を楽しむ優雅な貴族の奥様だった。が、すぐに自分の暢気すぎる発想に一人赤面することになる。
中世に北イタリアの領主となった彼女は、貧しい山村の住民を飢えから守るために栗の植林を指示したのだ。栗の木は「パン(=糧)の木」、栗は「貧民のパン」と呼ばれ多くの命を支えてきた。
地元の人に栗の木の剪定の仕方を教えてもらった時、家族の世話でもするかのように木と接し、手入れのされていない林を見るとひどく気の毒な顔をしていたのが印象的だった。人々は貴重な糧をもたらしてくれる栗の木を世話し、大切に守ってきたのだ。自分たちの住む環境は自分たちで守らなければならない、頭ではわかっていたつもりだが、この時すっと納得したのを覚えている。
彼はこの時、無料でレクチャーを引き受けてくれた。土地を尊ぶ彼らは、土地と向き合おうとする「よそ者」の私達にも気前よく手を差し伸べてくれるのだ。講習の後はもちろん木陰で一杯ひっかける。こうしてまた絆が結ばれる。それ以来、敷地内の林の管理はできる限り自分達でするようになった。すると木々への親しみが膨らんだ。
夏が終わり後ろ髪を引かれながら山荘をあとにした私達だが、秋が深まると栗が呼び戻してくれる。何世紀も生きてきた栗の木は私たちの心配をよそに、立派な毬栗を用意して待っていてくれた。艶やかな栗たちは拾ってくれと言っているよう。ひんやりした空気の中、棘に気をつけながら一つ一つ手で拾っていると、すぐに体は温まる。
太陽をたっぷり浴びて育った栗は、焼いただけで十分甘い。鬼皮が焦げるまで焼いたら、布に包んで蒸す。布を開けると一気にみんなが手を伸ばし、皆で焼きたての栗を頬張る。
これも栗の林がもたらしてくれる幸せの瞬間だ。
大きな栗の木の下では、いつになく素直に人や自然と向き合える自分がいる。ここで親戚や友達と過ごす時、今、他のどこでもないこの場所にいることが幸せ、と心から思うことがよくある。それは共鳴する想いで、ここで時間を共にする誰もが感じることらしい。
私はこれを、人々の営みを見守ってきた栗の木の魔法だと思っている。そしてこの魔法は私達自身が保護していかなければいけないのだ。
Posted by 荒川 はるか
荒川 はるか
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イタリア語通訳・日本語教師。東京生まれ。大学卒業後、イタリア、ボローニャに渡る。2000年よりイタリアで欧州車輸出会社、スポーツエージェンシー、二輪部品製造会社に通訳として勤める。その後、それまでの経験を生かしフリーランスで日伊企業間の会議通訳、自治体交流、文化事業など、幅広い分野の通訳に従事する。2015年には板橋区とボローニャの友好都市協定10周年の文化・産業交流の通訳を務める。2010年にはボローニャ大学外国語学部を卒業。同年より同学部にて日本語教師も務めている。