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滞仏日記「鬱から脱する出会い」 Posted on 2019/01/07 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、朝起きた時にどんよりした気分の日というのがある。頭が重くて、気力がわかない、今日はそんな日だ。晴れてる日よりも曇っていることの方が多い印象のパリ、特に冬の曇り日はほっといても気分が塞ぎがちになる。鏡に映った自分を見つめ、ああ、今日は君のこと嫌いだな、と思わずつぶやいてしまった。自己嫌悪に陥るというが、この負のスパイラルに陥るとなかなか這い上がれないので、暖炉の上の鏡を伏せた。心を閉じたい時は閉じればいいし、耳を塞ぎたい時は塞げばいいし、見たくない時は見なきゃいい、と自分に言い聞かせた。いいんだよ、いいんだよ、そんなに毎日頑張らなくてもお前は十分頑張ってるんだから、と自分を慰める。独り言を言って自分を盛り上げていると、パパ、どうしたの、と後ろから息子の声が。慌てて振り返り、苦笑い。「昼に誰かに会うって言ってなかったっけ?」僕は思い出した。そうだ、今日はナンシーに会わなきゃならなかった。「何時?」「11時だけど」慌ててキッチンに走り、息子の昼ごはんを拵えた。こういう時のためにピカール社の冷凍食品を買いだめしている。最近、日本にも進出したそうだが、なかなかこれが美味い。一番のお気に入りは「Petit Sale」かな。フランスの冷凍食品のレベルはかなり高い。白身魚のフライと野菜の混ぜご飯を解凍し、それらしく盛り付けてから家を飛び出した。
 
小説家のナンシー・ヒューストンとは初対面である。年齢はいくつだろう、女性の年齢は本当にわからない。でも、小説に登場するような美しい物腰の人だな、と思ったのが第一印象。そう、まるで彼女自身の作品に出てくるような繊細な声と、繊細な指先に目が留まった。ナンシーは僕の目をじっと見つめながら、言葉を選んで、でも、作家らしく僕という人間を吟味しながら、語りだした。僕は「鬱なんだよ、ごめんね」と言った。でも、僕のフランス語は通じなかったようで、あなたのフランス語はちゃんと理解できるわよ、と逆に褒められてしまう。鬱の時は無理やりでも誰かと会うのがいいかもしれない。もちろん、人によるけれど、うまく気が合えば、気分も変わる。ナンシーは初対面だったが、波長があった。多分、同類の匂いがする。江國香織さんと出会った時にちょっと似ているかな。

ナンシー・ヒューストンはカナダで生まれている。フランス語はネイティブだが、大人になってから学んだ二番目の言語なのだそうだ。もともとはアングロフォン(英語圏人)なのよ、と言った。繊細な楽器が奏でるような静かな語り口調である。六歳の時に母親が家を出てしまい、その後、父親と暮らした。母親に捨てられた痛みが文学のインスピレーションとなって、作家になった。理解できないことや、説明できないことをいつも想像力が救ってくれた。十五歳の時に父親に連れられてアメリカ合衆国に移住。二十歳の時に一年間の予定でフランスに渡ったのだけど、パリに魅了され、哲学者のロラン・バルトに師事している。僕も学生の頃に「零度のエクリチュール」を読んだことがある。文学への深い情愛と独特の解釈、考察が面白い。ナンシーは70年代後半、女性解放運動Mouvement de Libération des Femmes (MLF)に参加している。僕たちの会話の中でも遠回しながらその話題が幾たびか出た。僕の仏語力では到底全てを聞き取れなかったけれど、でも、物静かな姿勢の内側に強いフェミニストの顔を垣間見ることが出来た。意思の強い人だな、と思った。英語圏人なのに、彼女はずっとフランス語で執筆している。長いキャリアの途中で一度、英語で書いたことがあったという。しかし結局それは出版されなかった。そこでフランス語で書き直したところ、オリジナルよりももっとよくなったのだとか。結局、小説ってなんだろう、と僕は思った。翻訳される小説はいったいどこまで自分の小説と言い切れるだろう。僕の作品でも翻訳家によって文体は異なるし、出来不出来も激しい。そのせいで内容もオリジナルとはかけ離れたものもある。最近、自分の翻訳された作品を読めるようになったので、目を落として、びっくりした。なんと誤訳の多いことか。それはさておき、英語人がフランス語で小説を書き続けることもすごいけれど、英語で書いた作品よりもフランス語で書き直したものの方が評価されるってことが面白すぎて、僕の鬱はすっとんでしまった。好奇心が暗い気持ちを蹴散らしたのだ。ナンシー・ヒューストンは「時のかさなり」という作品で2006年にフェミナ賞を受賞している。「辻さん、あなたの方が私より先輩になるのね」とナンシーが微笑みながら言った。僕は1999年にフェミナ賞を頂いた。受賞作である「白仏」フランス語版を手渡した。

フランスにおける女性解放運動についてもっと話を聞きたかったが、時間切れになってしまった。時間切れにしたのは僕だけど。つまり、僕は鬱気味だから。でも、今日はフランス作家の第一人者と深い話が出来て楽しかった。彼女の秘書マリアンヌが同行していた。ナンシーが席を立った時、マリアンヌに「今日のこと、日記に書いてもいいかな」と素早く訊いてみた。一応、勝手に書いちゃ失礼だろうと思って。するとマリアンヌは「でも、日記なの? 日記なら許可はいらないんじゃないの?」と笑いながら言った。
「ああ、日記だよ。でも、今日の出会いはとっても素敵だったから、どうしても日記に書き残しておきたいんだ」
 

滞仏日記「鬱から脱する出会い」